盛岡タイムス Web News 2013年  6月  23日 (日)

       

■  〈盛岡藩ゆかりの戦国武将─秀吉をうならせた宮部継潤〉2 矢萩昭二 長熙、南部盛岡へ流刑、不可解な改易

  今回は宮部継潤の生涯を語る前史として、宮部家が盛岡(藩)と関わりを持つに至った因縁を説明したい。

  そのきっかけは天下分け目の戦いといわれた慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにさかのぼる。

  宮部継潤の子、長熙は関ケ原合戦で西軍に内通したという理由で、その所領は没収され、三河西尾城主田中吉政の、せつなる(・・・・)とりなし(・・・・)により死一等を減ぜられたが、しばらく田中吉政に身柄を託され、次いで、三河国吉田城主松平家乗に預けられ、慶長6年9月に奥州南部盛岡に流されてきた。

  彼は、剃髪(ていはつ)して長令と号したが、悶々(もんもん)のうちに寛永11年、盛岡で54歳の生涯を閉じた。法名は「徳玄院殿応山功誉運徹大居士」。墓(五輪塔)は盛岡市名須川町の光台寺(浄土宗)の境内にある。

  しかし、宮部氏の改易については不可解で「なぜ改易になったのか」、その理由が判然とせず謎に包まれている。

  それゆえ関ケ原合戦後、30年を経て、宮部家が身上回復(大名復帰)を訴えるという運動を起こすに至る。

  長熙本人が認(したた)めた「身上相果申科之次第」という史料(柳川の歴史3所収、早稲田大学図書館所蔵「宮部文書」)から、その経過をたどってみよう。趣旨はとりなしをした田中吉政が、実は偽かけで、本当は微妙なからくりを仕組んだというのである。宮部長熙(当時23歳?)の弁明には合理性が読み取れるが、それ以上に、田中吉政の巧妙な政治的手法を感じることができる。訴えがなされたのは田中吉政も亡くなり、筑後柳川藩田中家も改易されていた寛永10年のことであるが。

  宮部長熙は改易の顛末(てんまつ)について細かに語っている。それによれば、西上する諸大名はいくつかの組に編成され、宮部長熙は東軍として田中吉政、木下備中守、垣屋隠岐守ら因幡・但馬衆を与力として佐和山城の攻撃にも加わった。江戸においても家康に謁見(えっけん)し、上杉討伐に向かう軍勢にいたのであるが、石田三成が蜂起したという報に諸将一転して上方へ戻ることになる。

  このとき宮部長熙は藤堂高虎の組であったが、近く親しい田中吉政の組に変えられたという。浜松まで来た時、与力として長熙の下にいた木下備中守、垣屋隠岐守とが命に背いて行軍から外れ、三河吉田から船で領国の因幡に帰ってしまった。

  その後、長熙が浜松から今切を経て矢作に至ったとき、宮部家の一部家臣と結んだ吉政が、なぜか長熙を訴えたという。その口上は「西軍に内応して与力の二人をまず領国に帰して、程なく自らも東軍を離脱する」というのである。しかし、家康は長熙に謀反の疑いはないとして吉政と共に「関ケ原」に参加させる。そして、佐和山城陥落の後、大坂に至り、ここで長熙は吉政を通じて木下と垣屋を生け捕るべしとの命を受ける。しかし長熙の領国因幡への帰還は「東軍」からの離脱と考えられる恐れがあり、直ちにそれを信じることはできなかった。そこで長熙は池田輝政や榊原康政に命令の真偽を糺(ただ)したが、吉政の命に従うべきではないかと諭(さと)され、木下、垣屋を捕縛するため領国に下った。しかし、この行為が吉政によって「逆心あり」(国元への帰還)として訴えられてしまう。

  長熙の主張を信ずれば、与力衆を捕まえるという偽りで私をだまし戦線から離脱させたのだという。その結果、家康の命もなく戦場から去った長熙は先に内応した与力衆共々領国を固めるものと嫌疑をかけられ、謀反を企てたということで宮部家は改易、領国鳥取城(八万石)は亀井茲矩(しげのり)に与えられてしまった。

  吉政が自分(長熙)を裏切った理由についても説明している。すなわち田中吉政と石田三成が一味をなしているという、うわさが家康のもとに達しており、吉政はこれを気にしていた。近江衆ということで二人は共通しており、吉政が三成と親密な関係であったことはおそらく「東軍」の周知の事実であった。吉政としては自分の立場をはっきりさせる必要があったのであろう。宮部を訴えることで家康の吉政に対する疑いを晴らすことになると考えたのかもしれない。これまでの関係(田中吉政は宮部継潤の与力)から
、宮部家中にも近親者が多く、吉政は彼らと協力して長熙を陥れる計略をめぐらしたのだという。宮部家断絶の後、因幡・伯耆国は吉政が拝領するであろうから、企てに加わった宮部家中の者にも大幅な恩賞を約束したというのである。全て信ずることはできないが、吉政の企ては成功し、改易となった宮部長熙は慶長6年、伏見城において南部家へのお預けを言い渡された。

     
   
 
光台寺にある宮部長熙墓(中央)
 



  長熙は宮部家の将来、名誉を回復し、できれば父、宮部継潤が苦労して手にした大名身分への復帰を願って以上のような訴えを起こしたものであるが、幕府は取り上げず成功しなかった。

  長熙は盛岡で33年間、失意のうちに過ごし、生涯を終えるのである。

  しかし、このことが縁で子孫は南部家臣として盛岡に根を張ることになった。

  長熙は吉政に謀られたと主張しているが、吉政は主家に当たる宮部家に取って代わり、宮部の身代を乗っ取るつもりだったのであろうか。あるいは仮に西軍が勝利した場合に備えて、親しい宮部家中を西軍に加担させることで自家の存続を画策したとも考えられる。

  また同じ近江出身で親しかった三成への加担を払拭(ふっしょく)したいために、宮部長熙を讒言(ざんげん)して証拠隠滅(責任転嫁)を図ったという意味にも取れる。

  家康もまた吉政の真意を見極めるために極限に追い込んでいたと思われる。吉政もそれを承知しながら関ケ原合戦後も佐和山城攻撃を進んで行い、土地勘を頼りに進退をかけて三成を追い、捕縛という幸運に恵まれ家康の疑いを晴らし、やがて筑後柳川藩24万石の大名に出世するのである。

  それにしても、これが真実であれば、画策の道具に使われた若年の長熙に同情せざるをえないし、天下無双、剛の者と秀吉に言わしめた、父継潤の名誉に関わることでもある。

  しかし、その真相はいまだ明らかにされておらず、宮部家にとって悲運と言わざるを得ない。
   (八幡平市博物館前館長)


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