盛岡タイムス Web News 2013年  6月  26日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉177 三浦勲夫 悲観と楽観


  悪いことが続くことがある。絶望するか。それとも「悪いことはいつまでも続かない、今にいいことが」と信じて待つか。待って公私の仕事を続けていれば良い方向への可能性も広がる。それは未来への一つの希望である。幼児は現在に生き、過去の思い出に浸ることも将来の夢を見ることもまだない。青年は過去の思い出に浸るより長期の夢を描くか、現在あるいは近い将来の生活を考える。高齢者は過去を回想するか、あるいはこれまでの体験を材料として、行く末の人生に直面していかねばならない。

  人は日々を送りつつ、失敗に悲観し、発奮し、成功に安堵(あんど)し、あるいは現実の厳しさを体験して慎重になる。悪いことが続いても「待てば海路の日和あり」、いいことが今にきっと起こるぞと待つ楽観派は、悲観を抑え、希望を捨てない。そのように年を重ねていく人たちがかなり多い。もちろん、問題への対処の仕方や他人との接し方なども学んでいく。対極には、悲観し、重圧につぶされて生きることをやめ、命を絶つ生徒たちや若者たちがいる。防止するには周囲の人たちが、それに気付いて話をする、対策を練る、問題から遠ざからせる、などのことが言われる。

  藤村操が17歳で自らの命を絶ったのは1903年、旧制一高生の時であった。「巌頭之(がんとうの)感」(遺書)を残して華厳の滝に身を投じた。「(前略)五尺の小躯をもってこの大(=天壌と古今)をはからんとす。(中略)いわく不可解。(中略)始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」

  悲観を突き詰めて、自殺を選んだ。ここで突き詰め方を緩めて、不可解のまま、時間を待てば別の解決策に至ったかもしれない。不可解の中に身を置き、疑問や不確実の中でも焦らず周囲を観察し客観的な真実をつかむ。その能力を「ネガティブ・ケイパビリティ」(消極能力。主観を克服し客観視する能力)と呼んだのは英国の詩人ジョン・キーツ(1795―1822)だった。シェークスピアの持つ、この能力を自らも求めた。夏目漱石は英文学を学び「則天去私(そくてんきょし)」の心を尊び、小説家ジェーン・オーステンを例として挙げた。彼が教えた学生に藤村操がいて、漱石は操の考え方を教室で批判した。どの点を批判したかは不詳だが、それが操の自殺の一誘因であったといわれる。

  幼児期、青年期、壮年期と人生を3大別すれば、人は主観的判断から、客観的判断へと成長する。絶対的悲観や絶対的楽観は、いまだ社会的価値判断に染まらない主観とも言える。それが永遠に許されるものではないことに気付くと、客観的悲観や客観的楽観も育つだろう。いつまでもいいことが続くわけはない。逆にいつまでも悪いことが続くわけもない。流れがいつか変わる日がくる。そのように大きく判断する。

  処世術的な態度としてみればこれは現実主義になる。しかし人間心理を善も悪も含めて冷静に観察し、描写する能力とすれば、これは人間性の真実をつかむ芸術となる。芸術、あるいは現実処理能力に救われることが数多くある。科学的真実もある。客観的なデータを重ねて万人を納得させ、感情や主観をはね返す。人間は笑い、泣き、年を重ね、大なる悲観にも大なる楽観にも屈服しない力を備えていく力があるようだ。
(岩手大学名誉教授)


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