盛岡タイムス Web News 2013年  6月  29日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉321 岡澤敏男 小川被告と賢治の二重フーガ 

 ■小川被告と賢治の二重フーガ

  賢治は『疑獄元凶』という野原の所々に草を結んでわなをしかけました。「フム、フム」と野原を進んだところ、その草わなに足をとられ転倒しながら、とっさに気付いたのはこの文章が二重フーガに構成されているということでした。

  この短篇は、昭和4年5月に「五私鉄疑獄事件」の収賄容疑で告発された現職の鉄道大臣小川平吉をめぐる心理劇がテーマとして描かれている。小川は9月に告発され収監されたが翌5年4月に予審が終結し5月より東京地裁で審理が開始された。爾来1394回の公判を経て昭和8年5月16日の第一審で、小川は無罪判決を勝ちとったのです。この間に小川の今村力三郎弁護士の懲戒裁判や裁判長忌避事件がもちあがったりなど、世間の関心がこの疑獄事件の行方に注目を呼ぶ裁判だったのです。『疑獄元凶』はこの無罪判決を報じた「時事新聞」の記事を素材に父から「大衆が読んで、すぐ分かるようなもの」という課題を与えられて書き下ろした短篇です。

  作品は被告席の元鉄道大臣小川平吉が弁護士で東京弁護士会の会長を勤め、加藤高明内閣では法相だった司法界の大先達であり、対峙(たいじ)する裁判官や検察が若い後進であるという法廷の場面で始まる。裁判開始にあたって検事の被告に向けた慇懃(いんぎん)な態度に「今の会釈は悪くない。功績ある上長として、盛名のある君子として、礼をつくした態度であった」と自尊心を満足させたが、壇上から判事が上司の儀容で「眼平ら」に見下ろす視線に触れた途端に狼狽(ろうばい)してしまう。小川被告は急いで平静を取り戻そうと静寂な名刹(めいさつ)の風景を想起します。「建仁寺、いや、徳玄寺、いけない、さうだ、清源寺!清源寺裏山の栗林!」と寺院名を連鎖させました。しかし、この中で京都にある名刹は建仁寺だけで、徳玄寺、清源寺は京都に存在しないし小川平吉のまったく知らない寺の名前のはずです。では、なぜ小川被告に無縁な徳玄寺と清源寺を引用したのか。しかも徳玄寺と清源寺(清養院)は盛岡市名須川町(北山)に所在する寺であり、盛岡中学時代に賢治が下宿した縁のある寺であることがキーワードだと思われます。ただし清源寺は清養院をもじったことは清養院の裏山には栗林があったことから推察されます。栗林は庫裏の普請で伐採され、その大きな幹で作られた机のあることを証言しています。

  この「徳玄寺、いけない、さうだ清源寺(清養院)裏山の栗林!」の文脈は、小川被告から賢治へ変身する二重フーガの意味を持つものです。すなわち父の前でいつも被告席に居る思いであった賢治が、検事の直視に堪える小川被告とのダブルキャストで心理的独白を展開したのです。結核の病状がじわじわ進んであと4カ月の寿命しかない詩人(賢治)にとって、父の課したテストは父に被告として告白する最後のチャンスだと悟ったのでしょう。この課題の錠前に差し込んだのは「賢治の生涯を浸したであろう根源の苦悩であった父と子をめぐる対峙相剋」(伊藤真一郎)という鍵だったのです。この短篇の結末を梁の武帝と菩提達磨との問答でしめくくったのは父への真の回答だったのかも知れない。それは「即位以来、寺院を建立し、写経し、多くの者の出家を許可したことにどれだけの功徳があるのか」と質問する武帝に対し、達磨は「無功徳」と答えたという象徴的な回答であったのです。

  ■短篇「疑獄元凶」(後半)より抜粋

 こゝで一詩を賦し得るならば、たしかにわしに得点がある。それができないことでもない。題はやっぱり述懐だ。仮に想だけ立てゝみる。中原遂鹿三十年、恩怨無別星花転、転と来て転句だ…おゝ何といふ向ふの眼、燃え立つやうな憎悪である。わしがこれを外らしたら、結局恐れてゐることだ。断じて、断じて戦ふべし。大恩のある簡先生の名誉のため、名望高い一門のため・郷党のため児孫のため、わしは断じて折れてはいかん。勝つものは正、敗者は悪だ。けれども、気力!気力でなしに境地で勝たう。
わしは不識を観じよう。梁の武帝因みに僧に問ふ、あゝいかん
梁の武帝達磨に問ふ 磨の曰く無功徳 帝の曰く
朕に対する者は誰ぞ 磨の曰く無功徳 いかん
朕に対する者は誰ぞ 磨の曰く不識! あゝ乱れた
洞源和尚に辞もない。
  (東京府平民 高田小助!!)
嗟夫!




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