盛岡タイムス Web News 2013年  8月  3日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉326 岡澤敏男 京都・四国まで仕入れに初上り

 ■京都・四国まで仕入れに初上り

  政次郎は「十七歳のとき京都・四国まで仕入れに初上りしたそうです」と、妻イチが『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著)で述懐している。政次郎が17歳であったのは明治24年のことで、9月1日に東北本線(当時は東北線)の全線(上野―青森)が開通している。だが前年の23年11月1日に盛岡までの路線が開通しているから、政次郎が明治24年に「京都・四国まで仕入れに初上り」したというのは、東北本線が盛岡まで開通・営業するのを予測して企画したものと思われます。それにしても17歳とは現在の高校生に等しい年齢なわけで、花巻から関西・四国方面まで足を延ばして古着仕入れを実行したとは驚くべき進取的な商人魂というべきです。今ならば「関西・四国方面まで古着を仕入れに行った」と聞いてさして驚くこともないでしょうが明治24年頃の鉄道事情を調べてみると、花巻から関西・四国方面へと向う汽車旅は、現代の知見では及びもつかないような難事があったものと推量されます。

  その当時は私鉄と官鉄(国鉄)が連結した状態でした。花巻から岡山に行くには、上野まで東北本線(私鉄)、新橋から神戸まで東海道本線(官鉄)、神戸から岡山まで山陽鉄道(私鉄)に乗り継ぐのです。山陽鉄道は明治19年12月に発足し21年6月兵庫―明石から着工した。そして岡山まで開通したのは24年3月18日と『鉄道運輸年表』(明治2年〜平成11年)にみられる。したがって政次郎が花巻を出発したのが24年6月頃であれば鉄道路線を乗り継ぎながら岡山まで乗車できたものとみられる。しかし、岡山から四国へどのようにして渡ったのか。現在ならば岡山から瀬戸大橋線で瀬戸内海を渡り容易に高松まで行くことも可能ですが、前述の『年表』によると山陽鉄道が岡山―高松間連絡船航路を開設したのは明治36年3月18日のことだから、それ以前には高松への行程は岡山から乗り合い馬車か何かで宇野まで行き、貨物船か運搬船に便乗して高松に渡るほかはなかったと考えられる。そのような情報を政次郎はいかにして入手したのか。交通費と滞在費、古着仕入れ費用、入手先との連絡や謝礼などの間接経費その他の雑費用も加算して出張旅費の総額を綿密に試算したのでしょう。とても17歳の青年の商才とは考えられないほどの大事業だったと思われます。おそらく往復に要した日数も一カ月余に及ぶ長期だったと推定される。果たしてそれまで苦労してまで採算がとれると見込んだのだろうか。

  古着の仕入れに関西や四国方面に出張した理由について明らかにされてはいないが、花巻地方の需要にふさわしい「仕入れ先に四国の丸亀をみつけた」と政次郎が森荘已池氏に話したと『ふれあいの人々・宮沢賢治』のなかにあるが、小倉豊文氏の次の推察は傾聴すべき価値があると思われる。「岡山県の備後・備中から広島県の備後南部方面には真言宗が多く、その檀家に葬式があると死人の晴着を檀那寺に納める風習があった。四国は〈八十八個所〉でもわかるように真言宗が多い。私は政次郎翁から〈いい品を安く買えたから〉とだけしか関西方面への出張の理由の説明をきかなかったが、おそらく上述のような地方的習慣を調べて知っていたのではなかったか」(『宮沢賢治』第2号所載「二つのブラック・ボックス」)と述べているのです。



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