盛岡タイムス Web News 2013年  8月  5日 (月)

       

■ 〈新・三陸物語〉23 大船渡湾史13


     
   
     

 江戸時代に「長崎俵物」と称して、海産物を加工、「俵物」として三陸産の海産物も長崎貿易品に選ばれることになった。

  三陸漁村で造られる海産物が、長崎貿易の重要な品目となったのは、それまでオランダ、中国などが望んでいた金・銀・銅の減産のため、貿易が著しく衰えたためであった。

  従来、片貿易で輸入されている外国商品は、当方において最も需要性の高い綿糸を筆頭に、65品目であった。これに対して鎖国令の中にいるわが国としては、オランダを介して長崎港のみで、しかも当初は一方的に購入する片貿易であったが、相手の要望により鉱産物を中心に輸出をするようになる。

  その輸出品は16品目で、そのうち、銅がいちばん質量ともに多かった。輸出の歩合から見れば、銅115貫に対して「俵物」は95貫であった。この割合は、しばらく続いたが、元禄時代に(1688―1710)になると、銅の生産が低下し、そのため、代わりに俵物の需要が増加したのである。

  実は、このことは、長崎俵物売方吟味高木彦右衛門の進言により俵物増産によって、長崎貿易を盛んにし、よって綿糸など当時の一般庶民の需要に応えようとしたためであったという。

  このために海産物の必要度が急速に増し、従来の関西地方の産物だけでは、著しく不足になったのである。ここに三陸海岸の海産物の重要性が増すことになり、松前(北海道)産の海産物と、覇を競うことになったのである。

  三陸海岸は、極めて優良な俵物の産地であった。特に中国人の好む三色(干鮑〔あわび〕・煎海鼠〔いりこ〕・鱶〔ふか〕の鰭〔ひれ〕)をはじめ、昆布・鯣(するめ)・かつお節などの海産物加工品の産地として名を上げたのである。

  この地の漁民は、貯蔵技術の向上に努力し、遠距離にわたる輸送にもめげず、長期間にわたって海産物を長崎へ送り続けたのであった。

  俵物の作製や輸送により、海運・陸運が飛躍的に発達したのは「東廻り海運」の開発に成功した江戸時代後期のことである。気仙地方からの廻船は、塩釜、石巻、遠くは江戸(中湊)まで延びたが、ほかに五十集船(いさばせん)などは、関東、関西の特定の港まで出帆したものも少なくない。

  だが、気仙地方の海運の主役は「トワタリ船」と称する湾口において着荷する小船であった。これが魚類・塩・俵物などを運搬していた。

  「渡り」としての大船渡から渡った所(港湾)と、その村々の戸数をあげれば、次のようになる。

  ―大船渡243戸。俵物などで最も交流のあった綾里村は320戸あり、近くの末崎(細浦)は289戸。対岸の最も近い赤崎は253戸。

  そして旧三陸町の中心であった越喜来は177戸。隣の陸前高田の広田は321戸。小友村は300戸。長部村168戸。

  いずれも安永3年(1774)の「書上」による戸数であるが、気仙郡で人口の最も多いのは世田米で413戸。反対に最も少ないのは猪川の112戸―と見えている。


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