盛岡タイムス Web News 2013年  8月  14日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉346 伊藤幸子 滅びの美学


 春なればいまひととせを生きんとてふるきみだうにこころあづけぬ
                                  立原正秋

  「壬生(みぶ)家には二人の息子がいたが、長男は第二次大戦で戦死し、まだ若い寡婦と一人の娘が残された。寡婦はその器量をのぞまれて他家に再婚して去り、残された娘の昌子は父方の祖父の手で育てられた」これは立原正秋の、昭和39年「新潮」5月号掲載の「薪能(たきぎのう)」の書き出しである。立原38歳、芥川賞の候補作としてつとに有名。「大事な物ほど見失う」といわれるが、このハードカバーの本を見失い、54年刊の文庫本をまた読み返している。

  没落した旧家のすえの壬生時信は、戦後毛織物の輸入商の店をたたみ、鎌倉にひきこもる。次男は戦争には生き還ったが21年、鎌倉駅前でつまらぬことからアメリカ兵と争い、ピストルで射殺され、やはり美しい妻と息子俊太郎が残された。翌年、寡婦は子連れで再婚。しかし俊太郎は新しい父になじまず、9歳の時逃げ帰った。こうして長男の子13歳の昌子と次男の子俊太郎の2人の孫は、昌子が嫁ぐまでの12年間を祖父の家で寝食をともにした。

  日本語には「身二つ」とか「血を分けた」兄弟とか、血道、血脈、血族等々直接的な表現が多い。血を分けた兄弟の、さらに薄まった「いとこ」の男女という関係はどんなものだろう。いとこのことをうちのあたりでは「兄弟なし子」といっているが、「兄弟産(な)し子」の意味か、奥深い方言と思って聞いている。それも男女のいとこ同士、兄弟よりはわずかによそよそしく、全くの他人よりはずっと深い部分でわかりあえると信じこむ情感が慕わしい。

  やがて昌子が25歳で結婚した2カ月後、祖父が79歳で亡くなり、俊太郎には30坪の能楽堂が残された。「能を観るとか仕舞をやるとかは、女がわが身につける贅沢のひとつである。そのようにして身につけたものを見世物にしたり、あるいはそれで暮しをたてようとしてはならない」とは生前の祖父の口ぐせだった。

  俊太郎は大学時代からサッカーをやり、稲村ケ崎では能面を彫り、鎌倉の源氏堂に気ままに展示して手堅い贔屓(ひいき)もできていた。

  鎌倉薪能の日が訪れた。祖父につれられて大和路を歩いて出会った篝火(かがりび)が思われた。父も母も祖父もみな遠く、今血族といえるのはふたりだけ。こんな悲しみを知り、こんな愛を知ってしまった上は、それ自体の激しさゆえに滅びるべきではないか――。

  炎の色に絡み咲くのうぜんかずらの凌霄(りょうしょう)忌、8月12日は立原正秋34回目の忌日であった。

(八幡平市、歌人)


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