盛岡タイムス Web News 2013年  8月  17日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉328 岡澤敏男 治三郎の愛機?「コダックカメラ」

 ■治三郎の愛機?「コダックカメラ」

  政次郎の弟治三郎についての伝承はカメラマンだったという以外は全く知られていない。カメラといっても、昨今のような小型カメラやデジカメなどが容易に入手できる時代ではなく、やっと湿板写真機から乾板の手提げカメラが始まった頃のカメラマンであったのです。はたして治三郎の愛機とはどんなカメラだったものか、カメラ史をたよりに推理してみます。

  わが国のカメラ史によれば、明治初期(17年まで)には湿板の暗箱カメラ(組立式写真機)が主流で露出時間は晴天でも6〜7秒、曇りでは40〜50秒かかったといわれる。しかし、その頃の治三郎は年少だったから湿板写真機とは縁がなかったものとみられます。それが明治中期(18年以降)になると、瞬時に感光する乾板が出現して携帯に便利な手提暗箱が製作され、ファインダーやシャッターを備えたハンドカメラ(手提暗箱)が誕生していくことを『日本カメラ工業史』(日本写真機工業会編)が伝えている。乾板カメラによって写真の撮影は一段と容易になったが、カメラの大衆化に大きな貢献をはたしたのは、アメリカのイーストマン社が明治21年(1888)に、紙ロールフィルム使用の「bPコダック カメラ」を発売したことにあった。さっそく東京の浅沼商会が明治23年に輸入・販売したので、わが国のアマチュア写真熱が勃興し各地に素人写真家が急増したと『日本カメラの歴史』(毎日新聞社)が述べている。やがて小西本店も国産の手提暗箱(ハンドカメラ)第一号といわれる簡易低廉のアマチュア用「チェリー手提暗函」(名刺判5・4×8・3a)を明治36年(1903)6月に2円30銭で発売しているが、ちょうど治三郎が死没する5カ月前のことだから治三郎の愛機になり得なかったのです。「校本・全集」の年譜に、治三郎は20歳(明治29年)の時に「三陸大津波の写真報道をしている」とあるので、浅沼商会が明治23年に輸入した「bPコダック カメラ」ならば、ハンドカメラ(手提げ)でもあり明治29年三陸津波の被災地までカメラを携帯して行き、紙ロールフィルムに悲惨な情景を撮影し新聞社などに提供することも可能だったと思われる。治三郎が使用したとみられる愛機とは「bPコダック カメラ」と推察され、明治34年の小正月に、自宅の座敷で撮った「賢治とトシ兄妹の記念写真」も、この愛機によって撮影されたものだったに違いない。

  盛岡市内に写真館が出現したのは明治12年5月開業の「一心亭」を創始とし、明治23年10月に「山屋写真館」、同35年に「奈良写真館」、同38年に「遠藤写真店」などが開業したと『図説・盛岡四百年』下巻〔U〕にみられ、営業写真館によって明治10年年代、20年年代、30年代のチョンマゲ姿や文明開化のハイカラさんや、晴着姿の女性たちの貴重な風俗写真を後世に遺しているが、アマチュア写真家たちは日露戦争の好景気に支えられて明治40年代に勃興したものらしい。しかし治三郎は「明治29年三陸津波」の報道写真を撮影したのは20歳の時とみられるから、ハンドカメラを入手したのは10代の後半(ハイティーン)頃と思われます。治三郎が14歳のときに、浅沼商会がアメリカのイーストマン社から「bPコダック カメラ」を輸入し販売を始めている。カメラに異常な興味をもった治三郎が兄政次郎の協力を得て、その数年後に東京日本橋浅沼商会からカメラを取り寄せたものではなかろうか。
 



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