盛岡タイムス Web News 2013年  8月  18日 (日)

       

■ 杜陵随想 「弱虫」米内光政 伊能専太郎

 戦争は政治家だけでやればいい(某紙掲載の川柳)

  壺井栄『二十四の瞳』のおなご先生(大石先生)が生徒の正にこう聞かれた。

  「先生、軍人好かんの?」「ううん、好かんことないけど、漁師や米屋のほうが好き」「先生、弱虫なんじゃ」「そう、先生弱虫」

  これは映画のせりふだが、こんなやり取りで、おなご先生は、戦争に反対する「アカ」のレッテルを貼られる。男の教え子5人のうち、1人は失明し除隊、正を含む3人が戦死した。「死んだ」のではない。「戦争で殺された」と英語では表現する。

  殺されたい人はいない。

  おなご先生が弱虫なのは理解できるが、立派な体格で威厳・風格も十分な軍人かつ大臣なのに、「僕は弱虫」と言った男がいた。

  あの米内光政だ。『二十四の瞳』と時代は重なる。

  盛岡市先人記念館の企画展「盛岡中学の黄金世代」の展示資料の中に、それはあった。米内の恩師冨田小一郎先生が、米内が載った新聞記事を切り抜いてアルバムの黒い台紙に貼り、大事に取っていたのだった。

  冨田先生は米内光政、金田一京助、野村胡堂、石川啄木らの師である。

  「昭和14年9月24日東京朝日新聞」と先生自身が記事の余白に青インクで書いてある。見出しが「僕は弱虫」。「語る人米内光政大将」とあり、軍服姿の米内の顔写真がある。インタビュー記事だ。国のリーダーが「僕は弱虫」などと天下に公言していいのか。

  弱虫発言を引用する―わしの弱虫だったことに間違いはないよ…。地位の向上はその人物を英雄化す、しかし強くもない少年時代をすばらしい少年の標本のような扱いはいけない、幼い過去を飛躍してくる過程こそ、見逃してはならない―

  人は学び成長する、しっかり人を見ろと言っている。「この通りわしは元気じゃ、郷里の方へよろしく」で記事は終わる。人柄がにじむ。

  米内は英米仏対日独伊では到底勝ち目はないと思っていた。強硬論多数派の陸軍と対立。脅され、命を狙われたが、石のように頑固に自分を貫いた。だが、一個や二個の石で大きな流れは変わるはずもなく、三国同盟は締結された。戦争への導火線だった。

  結果的に戦争を回避できなかった米内を後世、愚将と呼ぶ人もいる。つらいところだ。われらは衆愚か。

  「米内大将については、自分たち(GHQ)の方で生い立ちからすべて調べてある。命を張って三国同盟と対米開戦に反対した事実、終戦時の動静、全部知っている。米内提督が戦争犯罪人に指定されることは絶対あり得ない」(阿川弘之『米内光政』)。

  弱虫こそが、突き進む強がりの無謀に「ノー!」と言えるのだ。
  (盛岡市本宮)


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