盛岡タイムス Web News 2013年  8月  26日 (月)

       

■  〈新・三陸物語〉26 金野静一 大船渡湾史16


     
   
     

 長崎俵物の重要な生産品である煎海鼠(いりこ)の生産割り当てに端を発した末崎と、大船渡の紛争事件は、容易に解決はしなかった。

  そもそも煎海鼠の割り当ては天明元年(1781)に、仙台藩が幕府から受けていた。したがって仙台藩は、これを藩内の漁村ごとに割り当てたのである。

  末崎村では、前から煎海鼠の生産はせず、割り当てられた分は、漁場を大船渡に貸し、その代償として自分の村の割り当て分を、大船渡から安くゆずり受けて、その責めを果たしていたのであった。

  さて、同時に新しく割り当てられた分量は、大船渡に対しては約100貫目という大量のものであった。しかも、藩が買い上げる値段は安く、割り当て量が多ければ多いほど、損をするという状況であった。

  そこで大船渡では、今までのように末崎村への優先的な売渡しをしない、と拒否した。それを通告された末崎村は大いに困惑した。何しろ今まで一切を大船渡に任せていたので、今さら煎海鼠を製造しようにも、その方法も設備もない。そこで頭にきた末崎の面々は、「それならこれまで貸している漁場を返してもらおう」ということになった。

  大船渡は明らかに契約違反だ、と責めたが、逆に喜んだのは大船渡の方である。

  「それなら申出のとおり海は返す。だが大船渡の割り当ては、末崎から借りた海からの生産を加味した割り当てであるから、借り海からの生産分は末崎において負担すべきだ」

  というわけである。従来、末崎から借りた海の割り当ては50貫目であったから、これからはその分は末崎で負担するのが当然だろう、という。

  このような大船渡の言い分に、いよいよ驚いたり、怒ったりした村中の漁民は、

  「大船渡は、けしからぬ。その言い分は、まことに理不尽である。いりこを生産すれば、有利なときは、おらほ≠フ海は、何のかんのと言って、無理矢理借りて借料も少ししか支払わないくせに、生産が不利になると、割当額を前よりも大きくして、そのうえ借りた海を返すから、藩から割り当てられた分は、どうぞ末崎の方で支払いを…とは何事か。およそ海の者同志とは仁義に厚いもの。しかも、お互いに隣村の関係にあるではないか」

  「しかるに、前々から海の借料もごく少ししか支払わないのに、藩からの割り当てを大きくして返すとは、何たることか。末崎では今まで、大船渡から買って上納していたのだから、今さら新たに生産割り当てを受ける道理はない。これらは全部大船渡が負担してもよいではないか」

  というように、大船渡、末崎村は主張して、実に30年間も争いを続けたのである。

  この争いの結末は、どのようになったかは資料が見当たらず不明であるが、このようないわゆる「海の論議」は、元禄12年(1699)から明治13年(1880)までの約180年間に、大船渡湾岸漁村において、実に35件も起きている。漁獲や漁殖の方法が進歩すると、この種の総論もいっそう激しくなっていったのである。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします