盛岡タイムス Web News 2013年  8月  30日 (金)

       

■  〈学友たちの手紙〉143 八重嶋勲 悩める胸を慰め暮らしけむ


■190巻紙 明治三十七年二月十日付

宛 東京市本郷區臺町十九、三洲舘 野村長一様

発 [岩手郡]渋民村 石川啄木

おゝ友よ。

近来四事漸く竃Zに際し、打ち絶へて御無音にのみ過し候事、疎慚先づ以て面目なき次第に御座候。年明けては私もこゝ十九の春、病愁名残りなくあとを潜めて、また生来の惰眠も思ふまゝに貪りえず、心何となく忙しき此頃の、思ひもよらぬ御無沙汰、友よ願くは悪しくな覚し玉ひそ。「車中にて」の御端書頂戴して既に二旬、そこなる三洲舘上の御清適、近況如何に候や。寂寥村裡の身、故もなく都の空の羨まれて候。物毎に新しき風雲を起すも都、事毎に活躍たる思想の漲るも都、哀れ、一ヶ年の沈黙より今醒め出で候へば、南の空の恋しきも誠に禁じかねて候ふぞかし。御消息御漏らし被下度候。

一月の上旬、友阿部君が姉君の永眠に際して、悲しき送骨を竜谷寺畔に吊ふべく、私愴惶出盛致し候ひし時、僅かのちがひにて兄に御拝眉の期をえ兼ね候ひしは、未だに口悔しき事と存じ居候。兄も御承知に候ふべし、去る二月一日、仙台樗牛会の序を以て姉崎嘲風博士盛岡に来り杜陵館裡に一夕の公演を開かれ申候。当日夕刻、かねて文通致し居候事とて、博士の急信に接し、夜の九時と云ふに私取る者も取り敢へず、雪路好摩に車便を駆りて、杜陵に参り、同夜、会果てゝ後、頃しも十五夜の冬の月傾きそむるまで旅館高与楼上にビールの杯をあげて数時間の歓会を縦(ほしいまま)にし申候。翌二日、午前にステーションに於て嘲風氏と袂をわかち、夜、岡山君の病気を見舞ふて、そこに小林君に会し、種々兄の御噂承りて、いや更に御面晤をえざりしを悔やみ申候。後悔何日(いつ)も先に立てぬ者と、苦笑致し候。

東西思想の接触浩洋として四海に迫るの今日、文星日に凋落して文芸の一大転機漸く動き来る事と存じ候へば、野居低唱の身乍らに、猶且つ、多少自らを恃みて覚悟せざる能はず候。客臘の「明星」に初め処女詩作を掲げてより、有力なる若干の味方をも得候事とて、近来はひたすらに類を見ざる勇気を覚へ[え]て、全く希望の子と成れるかに感ぜられ、寒庵燈火に一人故もなき微笑に魅入られ居候。年稚き此小友が心掛け、殊勝なりなど御賞めに預り度候。呵々。

芸術は芸術のための芸術にて、功名などは副産物のまた副産物なりとは、常々鉄幹氏等と申し交し居事に候へば、詩勢未だ全くも定まらざる今日早やくも大家を気取るの人多きに堪へざる場合、願くは退いて兢々述作に励み、潜かに超世の理想に憧るゝを楽しみと致し度き所存に御座候、僭越なる言葉を敢てせば、詩は理想の花、神の影、而してまた我生命に候也。十二月以来の明星各号、並びに本月の「帝国文学」に出づべき悪詩の諸作御覧被下候はゞ何卒御高評仰ぎたきものに候。自作に対する親友の忠言程、うれしきものは無之候。明星よりは「時代思想」へも毎号寄稿の約有之候。

  *   *   *   *   *

先刻こゝまで書き来りて、金矢朱絃君の来訪に接し、止むなく筆をとめて、閑談流るゝが如く数刻を閲し、只今友帰りて、本郷八日后六時便消印の御葉書落手致し候。先づ何と申さんか。手に取りて眺むれば、目にうつる清風幽林の影、そこより響く美しき鳥の声の、耳にはきこえず候へど、私魂も浮かれ出で候。さてこの色は、緑に非ず、蒼に非ず、石褐の非ず、私は一人、友情の色と申し候。病重くもあらぬ日、往にし夏の我幾度か、かゝる森の中、かゝる景色に我も画中の人となりては、天よりひゞく諸々の声、地よりどよむ草々の歌に耳すまして、悩める胸を慰め暮らしけむ。早速の画架に毛管子の林なす筆立を代えて、たてかけたる美しの御絵を、すべらぬ様にとの用意には、ヴァイオレットインクの小さき壺、かくて私、この小画堂の主人公とすまし居候。

蕪詩御覧に入りし由、恥ずかしくも亦うれしく候。

「号外とび、車かける」てふ都の空、あらず今はこれ闔国(かふこく)の風情皆然り。戦の一語は我らに取りて実に天籟の如く鳴りひゞき候。急電[急転]直下して民心怒濤の如し。非役の軍卒は既に老いたる父母可愛き妻子に別れて、蹶起招集に応じて行きぬ。そこの辻、こゝの軒端には、農人眉をあげて胸を張り、氷を踏みならし、相賀して hey! Ho! の野語勇ましくも語る。酔漢樽をひつさげてザールの首級に擬し、村児群呼して「萬歳」の土音雷の如し。愛す可き哉、嘉すべき哉。日東詩美の国、かくの如くして未だ滔天の覇気死せざる也。小生は、あらゆる不平を葬り去りて、この無邪気なる愛国の民と共に軍歌を唱へんと存じ候。明日は紀元の佳節、小生は郷校に村人を集めて、一席の悲壮なる講話を仕るべく候。飛報あり、露艦二隻仁川に封鎖せらると。肉躍り骨鳴る。拝剣戛(かつ)として空に声あるの武人、寸筆馳せて弾の如きの文客、立たざるべからず、叫ばざる可からず候。小生は近く「愛国の詩」を賦して、唱へんとして歌なき民衆にそなへんと存じ候。我は何故にかく激したるか。知らず。たゞ血は沸るなり、眼は燃ゆるなり。たゞ血は沸るなり、眼は燃ゆる也。快哉。

日は暮れて、森の絵、燈火に映じて、色彩の調和益々美しく相成り候。

近頃は寒気大にゆるみ候へば、今宵も、寂院軒下、点滴の音甚だ幽、燈勢□々、苦茗淡々、吟腸尤も快を覚え候。今夜人籟(じんらい)定まらば、墨色を整へて、長詩『天の旅地の旅』を咏ずべく候。

野口氏の英詩、兄は如何御覧被遊候や、小生は去る甲辰元旦の日報にて聊(いささ)か郷人のために紹介致し置き候。近頃氏と文通を初め候。

去る頃、上田寅次郎兄に会ひて、一夜、清談をえ申候。小生は本月中に二、三週間滞在の見込にて上京致す可く候。三月は改めて都門の人たらんつもり。何れ歓会の日は永々の相見ざる情緒語り交はし可申候。

お文賜はりたく候。今日はこれにて擱筆。祈御清康。

   三七、二の十、夜。      啄木

  野村大兄 侍史

P、S、都門の諸友、近況如何。慾多き話乍ら、絵葉書渇望にたへず候。草々。

 【解説】「姉崎嘲風博士」とは、本名正治(まさはる)、明治6年7月25日、京都生まれ。帝国大学哲学科卒。明治33年『宗教学概論』を刊行。東京帝国大学助教授となり明治38年初代の宗教学講座教授。その間ドイツ留学から帰国後、明治35年『現身仏と法身仏』で文学博士。大正12年東京帝国大学附属図書館館長。キリシタンなど日本宗教の研究多数、という。昭和24年7月23日没、享年76歳。明治から昭和期の宗教学者、評論家。

  この時、姉崎嘲風博士は、31歳。石川啄木は、19歳。盛岡で講演を行った姉崎博士は、渋民の石川啄木を呼び出し一夜歓談したというのである。「かねて文通致し居候事とて、博士の急信に接し、夜の九時と云ふに私取る者も取り敢へず、雪路好摩に車便を駆りて、杜陵に参り、同夜、会果てゝ後、頃しも十五夜の冬の月傾きそむるまで旅館高与楼上にビールの杯をあげて数時間の歓会を縦にし申候。翌二日、午前にステーションに於て嘲風氏と袂をわかち」と書いている。やはり啄木はまれなる非凡な人であったのであろう。

  この手紙を見ても、若年にして語彙が大変に豊富である。啄木の語彙の博学であることに、与謝野鉄幹が驚いたということである。

「芸術は芸術のための芸術にて、功名などは副産物のまた副産物なりとは、常々鉄幹氏等と申し交し居事に候へば、詩勢未だ全くも定まらざる今日早くも大家を気取るの人多きに堪へざる場合、願くは退いて兢々述作に励み、潜かに超世の理想に憧るゝを楽しみと致し度き所存に御座候」も、石川啄木の心構えがうかがえる良い言葉であると思う。

  体調を整えてまた上京したい気持をありありと伝えている。


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