盛岡タイムス Web News 2013年  8月  31日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉330 岡澤敏男 政次郎と暁烏敏

 ■政次郎と暁烏敏

  明治36年11月、政次郎の片腕だった行動的で進取的な弟治三郎を27歳で失ったダメージの深さは「無為にして此世を辞せんか」(明治42年6月2日付暁烏敏宛書簡)という精神状態に追い込んだものらしい。進退窮した政次郎が、一心に念仏を唱えていると「忽ち一道の御光に接し」たという。仏壇から射してきた阿弥陀如来の一条の霊光に浴した政次郎は「初めて究境の安慰を得申候」と書簡にある。それは「(日露)戦役前後」の頃のことで、その霊光に接して以来「求道はいよいよ強く、仏教書を多く購入」していったと年譜にみられるが、それは暁烏敏に接したのちのことではなかったのか。

  政次郎は同信の阿部晁・高瀬新太郎らと「我信念講話」の講習会を組織し明治32年から毎年(8月1日〜約一週間)花巻大沢温泉で行っていたが、その中心には宮沢マキ(一族)の人たちがいて「経費を負担し、計画を立て、講師交渉、宣伝、その他一切を負担」していたと堀尾青史『年譜・宮沢賢治伝』にある。治三郎が早逝(11月)した明治36年の第5回講習会に真宗大谷派宗教家の近角常観と楠竜造を講師に迎えていた。近角(ちかずみ)も楠竜造も、仏教の近代化をすすめた清沢満之を中核とした若い信仰者の集まりである浩々洞のメンバーでした。浩々洞とは宗教制度視察に渡欧した近角の家に明治33年11月開洞したもので、清沢満之を洞主に、その高弟暁烏敏、多田鼎、佐々木月樵ら10人近くが在洞し楠竜造も34年8月に入洞している。満之の片腕として浩々洞活動を進めた暁烏敏のことを政次郎は竜造から教えられたのでしょう。明治39年度第8回「我信念講話」講習会の講師として暁烏敏を招聘すべく、政次郎は花巻出身で東京帝国大学哲学科の学生だった佐々木哲郎に斡旋を依頼したと思われる。

  当時東大3年だった哲郎は、明治34年1月に浩々洞が発行した月刊誌『精神界』を読み、11月より毎日曜日に開催する「精神講話」にも参加して暁烏敏に面識を得たのかも知れない。暁烏敏の日記をみると、明治38年9月23日の受信欄に佐々木哲郎の名があり、26日には「夕より百目木を訪ひ、この草を渡す。佐々木哲郎を訪ふ」とある。また10月1日の日記には「午前、佐々木哲郎来。栗を持参」という記事もあって親密の度合いを感じさせる。哲郎が政次郎を案内して浩々洞の暁烏敏を訪問したのは明治39年4月18日のことだったらしい。「午後、佐々木哲郎、花巻の宮沢政次郎と共に来。今夏花巻の講習会に行く事を約す。夕になりて去る」と日記にみられる。花巻に帰った政次郎は、すぐさま暁烏敏に「此間ハ参洞種々御高教ヲ蒙リ難有仕合奉深謝候」と礼状を差し上げている。それが5月21日付書簡で、61通ある金沢大学暁烏文庫蔵「暁烏敏宛宮沢政次郎書簡集」中、昭和3年まで及ぶ書簡のいちばん最初の一通だったことから、政次郎が暁烏敏に面識を得たのはこの日が最初だったと思われる。

  なお政次郎は明治36年4月、暁烏敏に関する情報を浄法寺の法友高橋勘太郎からすでに入手していたかもしれない。それは暁烏敏が真宗大学丙申会の依頼を受け東北飢饉慰問行(明治36年4月6日〜13日。盛岡・千原円空 沼宮内、戸田、葛巻、福岡、浄法寺・小田島五郎方 一戸、盛岡、日詰・永井濤江方 仙台、帰洞)したのときのこと。高橋勘太郎が浄法寺から荷を負って暁烏敏を一戸町まで案内しているのです。

  ■暁烏敏日記「東北飢饉慰問行」より(抜粋)
  明治三十六年 四月四日、五日、六日(省略)
  四月八日 晴
  七時発、葛巻第一の窮者を尋ね、食と金とを恵み、慈光を語る。彼亦念仏を解せず。残雪をふみて峠を越え、戸田村の村役場につき各村にて窮者を慰む。従へる人夫、念仏の徳を解せり。到る所村長案内す。月の夜を山道六里越えて夜の十一時二戸郡福岡町に入り宿す、行程十五里。予は未だ衰へざるを知れり。窮者は葛の根、木の実、干葉を食ふ、目もあてられず。予は自ら米を食ふの贅沢を思ふ。九戸郡視察終る。
  四月九日
  七時発、郡役所に行き取り調べ、車にて二戸郡浄法寺村に行き、小田島家に宿す。行程六里、同家は二戸郡第一の財産家の由…信者有り夜来たり談ず。
  四月十日(省略)
  四月十一日
  八時発、小田島五郎氏は御山迄送る。信者にして学者なる高橋氏荷を負ひて念仏と共に一戸町迄送らる。(以下省略)

 


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします