盛岡タイムス Web News 2013年  11月   9日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉340 岡澤敏男 健次郎生家に眠っていた賢治のノート

 ■健次郎生家に眠っていた賢治のノート

  青春期の宮沢賢治の心に深くメモリーを刻んだ友人は、不思議にもいずれも寄宿舎で同室だったという因縁をもっている。それは盛岡中学校自彊寮の2階12室での藤原健次郎、盛岡高等農林学校自啓寮の南寮1室での高橋秀松ならびに南寮9室での保阪嘉内の3人を指す。高橋秀松、保阪嘉内についての伝承は多く語られてきたが藤原健次郎は中学3年の9月に夭逝(ようせい)したためか伝承が少なく、主として野球部選手で4番バッターとの横顔でしか語られてこなかったきらいがある。従って賢治との関係は謎が多く、ただ1通しか存在しない健次郎宛ての書簡や昭和5年頃の病床で回想した「東京」ノート、「文語詩篇」ノートの略年譜に準拠して推理するしかなかった。したがって「東京」ノートの1年生1学期の欄「寄宿舎ノ夕 藤原 ランプ 塩」、2年生1学期の欄「藤原健次郎 南昌山 家」「同 水晶」「同 頂上」/「藤原 野球 ウツ」そして2学期の欄「藤原 死ス」というメモは極めてミステリアスな事項として注目を浴びてきたのです。ところが2001(平成13)年9月になって藤原健次郎の生家の蔵から賢治が使用したノート(雑記帳)が発見され、9月18日の『岩手日報』に「賢治のノート発見」の見出しで報道されました。「矢巾町宮沢賢治を語る会」がご遺族の聞き取り調査を進め、賢治が藤原家にたびたび泊りに来ていた事実が明らかになり、今まで隠れていたものが日の目をみることになった。寄宿舎の舎生は土曜日になると日曜日の休日を兼ね自宅に戻り一泊する慣習があったが、賢治は父政次郎の指示に従い土・日は花巻に戻らず寄宿舎で学習していたらしい。それを気の毒がった健次郎は不動村の自宅へ賢治を誘ったものとみられる。松本隆著『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』によれば藤原の生家は紫波郡不動村(現矢巾町)でも使用人を多く雇い、農耕馬を数頭飼育する大きな水稲農家で、屋敷は数反歩、蔵が3棟(主蔵・米蔵・味噌蔵)あり、屋敷の北側に大きな堤ではマゴイをたくさん飼っていたという。また小学校時代の健次郎は優秀な成績を残しており、野球部の4番バッターとしてはやされるだけのアスリートではなく英才を秘めていたから、藤原家に保存されていた賢治のノートには1年生から2年生の1学期の初め頃までの約1年間、学校で授業を受けた記録と復習した記録が認められ、土曜の夜は健次郎に助言を受けながら自習する賢治がうかがわれます。そして日曜日には藤原家から約7`の道を行進して南昌山登山口に至り、頂上まで登山しながら山腹で水晶やのろぎ石などを採集した楽しい事実があったから、「東京」ノートに「藤原健次郎 南昌山 家」等々とメモしたものと思われる。これで謎めいたメモも氷解していったのです。

  健次郎は3年生の夏休みに野球選手として秋田へ遠征したその帰路、雨の中を横手から黒沢尻まで約百`の道を重い野球道具を背負いながら移動し、黒沢尻に到着するや休む間もなく黒沢尻軍と試合をやって、やっと解放され自宅に戻った直後に腹痛と下痢にやられ腸チフスと診断され盛岡の病院に入院したが、回復することなく1910(明治43)年9月29日にわずか18歳で夭逝し、賢治を悲しみのどん底に突き落としたのです。そして、あの賢治のノートは健次郎の生家に残されたまま91年間も蔵の中に眠っていたのでした。




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