盛岡タイムス Web News 2013年  11月   14日 (木)

       

■  〈風の筆〉26 沢村澄子 「海辺の家」


 わたしの母の両親は、母が小学校に上がる頃、相次いで病死したらしい。5人兄妹の末っ子だった母は、親子ほど年の離れた一番上の姉に育てられた。1人いた兄は戦死し、その大姉がお婿さんをもらって家を継ぐが子どもができず、母が3人女の子を産んだというので、1人、養子にどうかという話になった。それで、小学校に上がる前の一時期を、わたしは和歌山の伯母の家で過ごしている。

  その家の前は国道で、その道の向こうは、もう太平洋だった。波が荒れていた記憶はない。海はいつも広々と穏やかで、遠く水平線のあたりに真っ黒なタンカー。それがいつも止まっているように見えるのが、子供心に不思議でならなかった。

  伯母は野菜やストックという香りのいい花を出荷していた。米も作っていて、最初の稲刈りはゴールデンウイーク。それを手伝いにわたしの両親が大阪からやってくるのが待ち遠しかった。田畑の向こうの斜面にはミカン畑が広がっていて、大小さまざまなミカンが育っていた。ツーンとした柑橘(かんきつ)系のいい匂いを、今まだ思い出すことができる。

  ある日、伯母に呼ばれて「漢字を教える」と言われた。カンジ、と聞いても子どもに何かは分からない。

  「スミコ、ここに座れ。鉛筆持ったか? 自分の名前書いてみろ」。わたしは既に教わっていた通り「すみこ」と平仮名で書いた。「書けるな」と言った伯母がわたしから鉛筆を取ると、その横に「澄子」と書いた。

  「ほら。書いてみろ」そう言われて初めて「澄子」と書いたその時の奇妙な感触を、そのくせ、どうにも鮮やかで長年消えてゆかないその情景を、なぜか最近よく思い出すのだ。

  あの時のヘンな感触は一体何だったろう。それまで音で認識していたものが突如、変容したための戸惑いだったろうか。それとも、「スミコ」と耳で、「すみこ」と目で認識していた自分、が得体の知れない「澄子」になって現れ出てきた驚きだったのだろうか。

  いずれ、わたしは「澄子」にたじろいだ。漢字と言う摩訶(まか)不思議なものにたじろいだのか、自分が何者なのかにたじろいだのかは分からなかったが、にゅるにゅるしたような、生々しい感触がいつまでも手に残った。

  最近、インターネットでストリートビューというシステムを知り、まず検索してみたのが、この海辺の伯母の家だったのである。

  国道沿いにあるのですぐ分かったが、既に伯母も伯父も他界。パソコン画面に映った誰も住まなくなった家は、鉄門がさびて朽ち、花も野菜もミカンも見えず、しかし、わたしが海を眺めるために登っていた石垣はそのままにあった。 

  そこからストリートビューを反転させると大島が見える。

  「ここは串本/向かいは大島/仲をとりもつ巡航船」と唄う串本節が、隣のドライブインのスピーカーから、一日中途切れることなく流れていた。

  その海辺の家で、初めて書いた漢字は「澄子」。あの日からまた、年月も流れた。
     (盛岡市、書家)


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