盛岡タイムス Web News 2013年  11月   20日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉198 三浦勲夫 冬を越す


 いよいよ冬である、寒いし、雪は降るし、暗いし、太陽は遠ざかる。生物たちは生命力を試される。冬を乗り越えなければ死ぬことになる。トンボやセミは冬になる前に生を終えた。しかし終える前に卵を産んだ。卵がふ化して、幼虫になり、サナギになり、何年か後には成虫となる。命は継がれる。葉を落とした木々は冬を越す命のために、硬いつぼみをつけている。ハクチョウは南下して越冬する。それぞれの方法で冬を越し、種をつないでいる。

  しかし生物は弱い。厳寒、酷暑、山火事、天災、天敵と絶えず身の危険にさらされている。最近、盛岡市の黒石野の丘に野生の小鹿が目撃されるという。小鹿(おが)公園あたりらしいが、名前にあやかっているわけでもない。この冬を越せるかどうかとうわさされている。県内でシカの頭数が増えているようだ。凍死、駆除、餓死とその運命は厳しい。

  それに比して人間の場合は暖を採る火がある。電気もある。衣服もある。家もある。食物もある。しかしそれらを欠き、小鹿と同じように越冬の難関にさらされる人たちもある。人類が霊長類として生物の頂点に立ったのは三つの発明あるいは発見があったからだといわれる。火の使用、言葉の使用、道具の発明である。しかし物には表裏の面がある。火、言葉、道具は善用すれば大きな利益をもたらし、悪用すれば大きな災厄をもたらす。

  火の場合は火災、火器などがあり、言葉の場合は中傷、いじめ、だましなどがあり、道具の場合は事故や殺人事件もある。他の人たちや生物に対して絶対的な支配権を持つことを「生殺与奪」の権力というが、今はこれを「セイサツヨダツ」と読むのが正しい。昔は「セイサイヨダツ」という読み方もあったが、今では誤りというか、全く廃れてしまったようだ。言葉にも命がある。

  しかし人間が他種の生物に対して持つ生殺与奪の力は、人間に対しても戻ってくる。冬を前にして、親を失った小鹿が盛岡市内の丘の茂みにかすかに息づいている。生かすとすれば捕獲して動物園で飼うことだろうか。そうでなければ過酷な運命に従わざるを得ないことになる。この小鹿の姿は人間の姿でもある。人間は自然に対してある程度の支配権は持ちうるが、限界を超えれば無力である。なんとか危険を事前に回避し、事至れば懸命に危険から逃れなければならない。

  最近のフィリピン・レイテ島における台風災禍、伊豆大島の豪雨土石流から、もちろんあの東日本大震災、津波、福島第一原発事故などがある。懸命な復旧努力が行われているが、天災プラス人災と化して、その災害規模が拡大している感じだ。

  冬の気配が毎日濃くなり、植物や動物たちの冬越しの姿を目にする。朝の散歩では木のつぼみを見、姿を消したトンボやセミを思い、岩手山はじめ遠近の山に積もっていく雪を見る。夜の晴れた空を仰げば満点の星座が凍ったように銀色にきらめいている。そのどこかに国際宇宙ステーションがあって、若田光一さんが船長を務める科学者チームが宇宙の秘密を解き明かしている。無重力の空間と地球の重力。この地球に生まれ、進化したさまざまな命が太古からの小さな地上で今年も冬を越そうとしている。
  (岩手大学名誉教授)


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