盛岡タイムス Web News 2013年  11月   23日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉342 岡澤敏男 賢治と藤原家

 ■賢治と藤原家

  藤原健次郎の長兄富治(7代目)の長男英一の長女総子が「私が学生の頃はノートのない時代でしたが、家に(宮沢)賢治の名前の入った3分の1ぐらい使って残していったノートが数冊ありましたので、使った分を裂いて捨て学校の勉強に用いました」(松本隆著「童話『銀河鉄道の夜』の舞台は矢巾・南昌山」)と語っている。この「ノート数冊」があったという意味は、藤原家の蔵から91年ぶりに発見された「賢治ノート」と同様に、学習や落書きなどをノート数冊に書こうと携行したものだろうから、健次郎の実家への土・日行は長期に及ぶ可能性を予期していたと考えられる。それは藤原誠一氏(英一の弟)が「雨の日など南昌山に行けない時は図画を描き、宮沢賢治と裏書きしたトマト、ナス、キウリや鶏などを描いた図画が残っていた」と述べているとおりで、藤原家に訪れた土・日行の形跡が1年生の2学期頃から2年生夏休み直前に及んでいることを、「東京」ノート(2年1学期「藤原健次郎 南昌山 家」「同 水晶」「同 頂上」)が示唆しております。それは健次郎の急死がなければ、3年生頃まで土・日行が継続されたことを託す「数冊のノート」であったと臆測させるのです。

  寄宿舎から健次郎の実家に一泊し、毎週の土・日を寝食を共にするという交際を、賢治は父政次郎に報告し容認を得ていたのだろうか。

  それを裏付けるものとして、文末に健次郎の急死を告げた父への手紙がある。それは明治43年10月1日のこと。手紙の概要は寄宿舎で受領した9月分の出納を父に報告するものだったが、その末尾に3行ほどの短かいフレーズで「紫波郡不動村の先学期の同室者たる藤原健次郎君はチフスにかゝり遂に一昨日死に申し悔みを今日致し候。勿論ハガキにて」と主観を交えずに健次郎の死を事務的に伝えていることに注目される。訃報に接し「悔みを致し候」とは故人と親しい関係の証しであり、「勿論、ハガキにて」とは取りあえず弔意をハガキで表明したという意味に受け取れる。さらに「事務的な報告」であった裏には、すでに健次郎のことを賢治が父に話してあって既知の関係にあることを示しているとみられる。葬儀は藤原家の菩提寺である室岡の浄土真宗本浄寺で営まれたことと思われる。健次郎の葬儀に賢治が参列したか不明だが「健次郎が亡くなった後には、賢治は時々墓を拝みに来ていた」と藤原誠一氏が述懐しているように、本浄寺の墓地を訪れてエレハント・大仏(健次郎のニックネーム)と南昌山などを語り合ったのでしょう。

  藤原家が宮沢家と同様に真宗同門であったこと、そして健次郎の実家(南田・藤原家)が不動村の名家であり豪農であったという情報に通じていたのではないか。それが健次郎との交際を容認する要因だったかも知れない。不動村は明治22年に誕生した白沢村からの後身で、健次郎が生まれた藤原家は屋号を南田といわれ名家として郷土誌『白沢村物語』にうかがわれる。健次郎は6代目栄次郎の4男、小さい頃から利口な子で優等生として育ち、受験生345人のうち合格者が128人という競争率をくぐって盛岡中学に合格したのだから、藤原家も将来を託して嘱望していたとしても不思議でない。そうした健次郎の弟のような友として藤原家の家族たちは賢治を快く接遇したものと思われます。

 


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