盛岡タイムス Web News 2013年  11月   30日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉343 岡澤敏男 健次郎の童話三部作

 ■健次郎の童話三部作

  大正7年7月、賢治が盛岡高農3年生のとき『アザリア』第1号に発表した「旅人のはなし」のなかで、「旅人は行く先々で友達を得ました。又それに、はなれました。それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました。旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました」と述べている。「随分遠くへ離れてしまった人」とは他界した友のことで、健次郎もその一人だったのです。大仏のニックネームの通り太って大柄だった健次郎が、アスリートとしての体力を持ち、なによりも寡黙で温厚な性格に賢治は魅せられたに違いない。藤原家で兄弟同様に寝食を共にし、趣味に学習に暮らした日々が思い出され涙ぐむことがあったかも知れない。

  不動村の藤原家へ寄宿舎から通った一泊土・日行は中学1年の賢治にどんな夢を与えてくれたのだろう。質や古着にまみれた商家と違い、自然の運行と共にして暮らす農家の悠揚とした営みに目を開き盛岡高農を志望し羅須地人協会につながったのではないか。健次郎の急死によって土・日行もわずか1年余の春秋でしかなかったが、南昌山や周辺山麓を散策して鉱石やキノコを採取した体験は「楢ノ木大学士」や「心象画家のターナー」となって、地学・文学へと開花する楽しい揺り籠であったと考えられる。

  健次郎の死後、高農に進学して地学徒となった賢治は、健次郎と登った南昌山やその連山の毒ケ森、大石山、赤林山、東根山の地質を調査し文語詩「岩頸列」(「文語詩稿 一百篇」)を発想している。「岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなはち一つの山である」と「楢ノ木大学士の野宿」の中で大学士に解説させている通り、地学的に表現して南昌山の連山を「岩頸列」と言ったのです。

  さらに注目すべきは大正12年頃の作とみられている「谷」、「二人の役人」、「鳥を捕る楊」の童話三部作で、いずれの作品も小学生の私(賢治)と友達の藤原慶次郎(健次郎)が活躍するストーリーで、健次郎を回想して創作したことが明らかです。この童話によって16歳で急逝した健次郎は転生し、これからも賢治の親友として永遠に語り継がれていくのでしょう。

  作品を注意してみると、「鳥を捕る楊」以外の作品では舞台の現場はモンタージュされ南昌山周辺とは異なっています。「谷」では岩手山の馬返し付近に設定され、「二人の役人」では盛岡郊外の観武ケ原北西部にある法誓寺付近の原っぱに設定されていると推定されます。それは南昌山より岩手山の谷間のほうが谷の急斜面の恐怖感は深く、中央の役人が訪れるのに盛岡郊外としたほうが都合がよいのです。しかし舞台がモンタージュされていても、作品の発想は南昌山や山麓(広庭沢)などで実感した体験から生まれたもので、キノコ宝庫の場所の発見や、小鳥の群れがいっぺんに楊の木の中に落ち込む光景など、賢治と健次郎の驚きによって構成されたことには間違いない。

  それにしても賢治は健次郎の死を予感したのだろうか。藤原家の蔵から91年ぶりに見つかった「賢治ノート」には、筆で「空」と大書し、「南無妙法」と落書きしているページがあったのです。

  ■文語詩「岩頸列」

西は箱ケと毒ケ森、
          椀コ、南昌、東根の、
古き岩頸の一列に、
          氷霧あえかのまひるかな。

からくみやこにたどりける、
          芝雀旅をものがたり、
「その小屋掛けのうしろには、
          寒げなる山にょきにょきと、
立ちし」とばかり口つぐみ、
          とみにわらひにまぎらして、
渋茶おしげにのみしてふ
          そのことまことうべなりや。

山よほのぼのひらめきて、
          わびしき雲をふりはらへ、
その雪尾根をかがやかし、
          野面のうれひを燃し了せ。


 


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