盛岡タイムス Web News 2013年  12月   7日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉344 岡澤敏男 親鸞の「正信偈」から発心

     
  ■「法華寺の石柱」  
  ■「法華寺の石柱」  

 ■親鸞の「正信偈」から発心

  宮沢家は蓮如上人について得度した弘教坊釈水(俗名膝舘弾正輝忠)を開祖とする安浄寺を菩提寺としていて、浄土真宗への信仰が厚く親鸞聖人の「正信偈」や蓮如上人の「白骨の御文章(おふみ)」を、仏前で朝夕唱えるという宗教的な環境にあった。年譜(「校本全集」・堀尾青史)によれば宮沢賢治は3歳のときに同居していた父政次郎の姉ヤギが賢治を寝かせながら子守歌のように「正信偈」や「白骨の御文章」を語り聞かせ、いつしか賢治もそらんじていたという。

  「正信偈」とは真宗の根本聖典である「教行信証・行巻」(〈顕浄土真実教行證文類〉の行文類)の末尾にある七言・百二十句の「正信念仏偈」のことで、その頭書8句の念仏偈を宮沢家では仏前で音読していたのかもしれない。

  帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
  南無不可思議光(なもふかしぎこう)
  法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさいんにじ)
  在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶつしょ)
  覩見諸仏浄土因(とけんしょぶじょうどいん)
  国土人天之罪悪(こくどにんでんしぜんまく)
  建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
  超発希有大弘誓(ちょうはつけうだいぐぜい)

  3歳の賢治も紅葉のようなかわいい掌を合わせ唱和したものだろう。また家族とともに「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり」と「白骨の御文章」を唱えはじめて、やがて「されば、朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨なれる身なり」と唱和し「人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏申すべきものなり、あなかしこ あなかしこ」と念ずる姿も浮かんできます。もちろん阿弥陀如来の「無量寿」「不思議光」や「人の世のはかなさ」は3歳の賢治にはまだ理解不能だったろうが、年を重ねそれを感得する機縁が訪れたに違いない。特に島地大等編著の『漢和対照妙法蓮華経』に「如来寿量品」を読んだときに如来(釈迦・阿弥陀)の「無量寿」の真の意味が得心し、それが清六氏が伝える「狂喜して身がふるえて止まらなかった」(「兄賢治の生涯」)という真相だったのかも知れない。

  世に「三つ子の魂」といわれるが、賢治の仏教遍歴は3歳の脳裏に刷り込まれた「正信偈」や「白骨の御文章」に発心するものであろう。「小学校に入ってから粘土で仏をつくり画用紙に仏を描き、中学時代には仏を彫り、仏像を買い求めた」(関登久也『宮沢賢治物語』)といわれる。藤原健次郎の家から発見された「賢治のノート」に書き残している「空」の書も「南無妙法」の落書きも、仏教への関心の所在を示すもので、「空」には「白骨の御文章」から「般若心経」への移行が、「南無妙法」に描かれた文字の先が「妙」以外の「南無法」には左側に大きく跳ね上げていることから、「南無妙法蓮華経」に書かれた日蓮の「ひげ題目」を模写したものと推定される。これによって、中学1年生の賢治が「日蓮宗」へのかすかな関心を寄せていたことが読み取れる。また、その「ひげ題目」の文字は盛岡市北山の「願教寺」に隣接する「法華寺」に建つ3基の石柱から入手したものではなかろうか。



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