盛岡タイムス Web News 2013年  12月 18日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉202 三浦勲夫 衣装哲学


 『衣装哲学』といえばトマス・カーライル(英国・1795│1881)の著作だが、自分はこの3巻本をまだ読んでいない。紹介に目を通しただけである。題名を思い出したのは、この小文にひとつ論証の力を借りたいと思ったからである。彼は近代文化の発展に与えた大きな力として、印刷術、火薬、貨幣と並んで、ある意味で衣装の力もあっただろうとする。

  もったいぶった書き出しになったが、自分のこれまでの人生で着ては捨ててきた衣類を考えてみると、時系列(時間)的意味合いと場系列(空間)的意味合いがあることを改めて再認識する。衣装は寒暖から身を防ぐ覆いであると同時に、社会環境に順応する(あるいは反発する)仮面・記号でもある。人間の心身の成長を包み、人間の社会的役割を包む。脱いでは捨て、捨てては取り替えて人は生きていく。

  先日、洋服ダンスの整理をした。中身を夏物から冬物へと替えた。ジョギング用の半袖や長袖Tシャツもいっぱい外に出した。驚くのはTシャツだ。30歳から始めたジョギングだが、これまでにほとんど使い捨ててきた。中に数枚、最初の頃から使ってきたものがある。布地が丈夫で、着心地よく、洗いによく耐えた。愛着はあったが、十分に着古した。「古い上着よ、さようなら」と『青い山脈』の一節を思いつつゴミに出した。あの歌詞は古い思想に別れを告げる戦後の青春歌謡だったろう。

  30代の自分の体と心を包んだシャツを倍以上の年になっても着ていた。珍しいことだ。赤子時代、子ども時代、成長期などの衣装はすっかり姿を消した。仮に残っていれば、それを見て触り、心身の自分史の一部分を形として実感する手がかりになるだろう。今となっては不可能な話だ。写真を見てさえ、昔の自分の顔が他人のように見える。外見も心も大きく変わった。それでも自分の身は同じDNAであり、「三つ子の魂」も宿している。

  これからも心身は他人とは別の延長線にある。仮に高校時代の学生服が残っていれば、それを着た時の姿を想像し、その服を着て考え、感じた心の内を思い出すかもしれない。心身が成長するにつれて、服装も変わり、髪形や姿も変わった。心身の成長が落ち着くと、古着もいくつか残り始めた。大方は「年を経し糸の乱れの苦しさに」捨てた。そしてよそ行きも後生大事にせず、もったいながらずに、どんどん着た方がいい、と家人は言う。

  普段着でくつろぎ、外出着や仕事着で出掛ける。場合や場面によって服装を変える。服装は心を包み、心の持ち方を変える仮面でもある。顔の表情も仮面となる。捨てた服、残った服。手に取れるものは手に取り、失ったものは写真で見て、生きた歩みを思い返す。写真の中で何がうれしくて笑ったか。笑いに秘めた気持ちは何だったか。表情も複雑になる。

  集団写真の中の自分を見る。その服装と表情の中で何を考え、何を感じていたのか。人間関係の網の目の中で他人も衣装に身を包みカメラを見つめている。何を思っているのか。洋服箪笥の衣類を冬用に替えながら、特に歴戦のTシャツに別れを告げながら「衣装哲学」を思った。生まれてからの時系列と社会活動の場系列を生きる自分を保護し、単に寒さ暑さを防いだだけでなく、身の成長と心の機能を助けてもくれた。
(岩手大学名誉教授)


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