盛岡タイムス Web News 2013年  12月 19日 (木)

       

■  〈風の筆〉31 沢村澄子 「光悦」


 今回の旅では、大阪、名古屋、東京で計14本の展覧会を鑑賞。その中でも五島美術館の特別展「光悦―桃山の古典(クラシック)―」は特に心に残った。

  本阿弥光悦のことは学生時代から好きで、何となく少しヤクザな匂いがする気がしていたのだが、もっともこれはわたしの感想であって、杜甫や李白の道筋とは違う白居易のようなポジション、独特の色香や艶を光悦に感じていたということである。

  それでも、ヤクザな匂いの説明には足りず、しかしこれ以上自分の感受をどう説明したらいいのかと、仲間うちの飲み会で苦慮していたら、ある画家が言った。

  「光悦は刀剣が家業だったでしょ。だから斬ってるよ。生きてる人間はわからないけど。罪人の死体くらいは試し斬りしてるでしょ。でなきゃ、刀は作れないし、あんな匂いはしない」

  ビールを流し込む、グラスを持つ手がみな止まった。東京駅構内の居酒屋の、ほんの一瞬、の重い沈黙。

  そこにいた者はみな神妙にその発言を受け止めたが、誰一人その続きを引き受けることはできず、そんな事実が本当にあるのだろうか。また、わたしが長年光悦に感じていた匂いと、この説は、正しい因果関係にあるのだろうか。

  一同を沈黙させた若い画家は山にこもっており、時折、熊や鹿の解体にも立ち会うという。ゆえに至った発想ではないかと、人間の村に住むわたしなどは考えるのだが、その発言を聞いたと同時に頭に浮かんだ、それくらいのことを知らずして美をつかむことはできないのかもしれない、という思い。と同時に、川端康成のギョロっとした目や宮本武蔵の水墨画が浮かんだ。

  書にも茶わんにも、光悦のものには開かれた空気がある。閉じられたるフチ、のない透けた気配の向こうにいる、覚めた光悦。この達観は山王美術館で観た藤田嗣治にも似たようなものを感じた。自分をアキラメ、世の中をアキラメ、「フン」と鼻で笑って見据えた目、の先で展開される仕事の軽み。その自由。さらには、そこから漂い出るものの哀れが、彼らの持つ静かな愛情をもまた示して余りある。

  執着がないから軽いのだ。筆の運びの一瞬にさえ、彼らは自らに拘泥(こうでい)されていない。そして、生半可ではない経験がこれほどまでの達観に至らしめたと考えれば、死体であれ、光悦が人間を斬っていたという仮説は、その候補として興味深い。

  しかし、30代前半の藤田の画を観ていて、若くしてこんな目を持った人は生きづらかろう…とも思ったのだ。ならば、達観は特異な体験によってというより、生来のものとも考えられる。あるいは、尋常でない体験を呼ぶその生まれ、と言った方がいいのかもしれない。

  いずれ、自らの命さえも忘れてしまったような心のハテのハテに、美の悪魔はすみ付くのではないか。あのヤクザな匂いは、そのデーモンのすみかから漂い来ているのではないのか。

  宮本武蔵は史実、人を斬っていた。そしてあの画。命に執着あって剣はやれんでしょう。書もやれない。書と真剣はとてもよく似ていて、そうだ、と、ここで、川端康成のあの目が何を見ていたのか、もしアキラメていたなら、わざわざ自ら命を絶つ必要もなかったのではないかと、少し気になる。

(盛岡市、書家)


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