盛岡タイムス Web News 2013年  12月  25日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉203 三浦勲夫 訃報


 あと2日で冬休みに入るという17日の水曜日の朝、苫小牧の親類から訃報が入った。通夜は土曜の夜、告別式は日曜の午前である。3連休のうちだが土曜は日中仕事がある。それが終わってから盛岡を出発して苫小牧に行くことにした。通夜は出られないが日曜午前の告別式には出られる。そして同じ日の夜遅くに盛岡に帰ってくる。翌日には予定した行事に参加する。長期休みといっても、思いがけない事態が発生したり、普段できない仕事をしたりと、まず悠長に過ごせない。盆も正月も大勢の人同様に忙しい。

  この文も半分書いておけば帰宅してから完成できる。そう考えて書き始めた。少々ぶしつけな考えだが、苫小牧に旅することも普段と違う風景を見、亡くなった叔母の過去や彼女の親類の人たちとの交流を振り返る良い機会になるだろう。人の死を重く受け止めつつも、世の習い、人の習いと受け入れて告別式に参加し、弔意を表してくる。チケットを買って旅支度を整えると前向きに出発を待つ心境となった。

  親類の葬儀にはこれまで何度も列席した。父親の葬儀も出した。北海道、岩手県内、千葉県、埼玉県などに出向いた。昔は若々しかった人たちが老いてこの世を次々に去った。出会いがあれば別れが必ずやってくる。死は究極の別れである。生きて会話することはもはやない。残るのは思い出と遺品である。思い出と遺品が増えるにつれて、免れえない運命として死を受け入れ始める。

  告別式を終えてわが家に帰宅するとき自分は何をどう感じているだろうか。行く前の心境と後のそれとを比較すれば興味深い。今はこれまでの葬儀や亡くなった人たちとの会話やらがよみがえる。2年9カ月余り前、3・11の大震災のとき、心配して電話でお見舞いをしてくれた埼玉の叔母はその3か月後に急に亡くなった。自分がガンに侵されていることを知らなかった。あるいは体調が思わしくないことを感じつつ、電話で気遣いを語ってくれたのかもしれない。今思うと言葉に切迫感があった。

  大震災の後には、大学生当時の級友数人からも見舞いの電話やメールがあった。盛岡は津波の被害はなかったが、わが家では壊れたガラス戸、家具、調度品、金属雨戸などが散乱した。母の部屋の掛け時計はいまだに午後2時46分を指している。壁から落ちて電池も飛び出したのかもしれない。母はあのころはまだ歩くことができ、ガラス片が散らばる床をなんとか歩いて縁側に出て、救いを求めた。私ら夫婦は不在だったので、隣のご主人が車の中に入れて暖めてくれていた。母の姿の大事な思い出のひとこまである。

  その母がデイサービスを始めたのが奇しくもその月の1日だった、今はホームに滞在し車いす生活を送る日々である。亡くなった苫小牧の叔母と母とは同じ年齢で満95歳である。ホームに母を訪れるたびに手を握ると意外に温かい。母は自分の姉妹の死についても記憶していたり、忘れていたりする。だから母とは人の生死の話はしない。その思い出の中には若いころの姉妹兄弟や縁者や家族がいる。誰でも他人と最後に会った時の記憶が新たに残る。人が95歳で亡くなっても、10年前に会ったのが最後ならその記憶が残る。その記憶さえもやがて薄れればもっと以前の若い時の記憶が残る。
(岩手大学名誉教授)


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