盛岡タイムス Web News 2013年  12月  26日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉86 菊池孝育 BCSC報告書の内容12


 その六 道路建設現場と抗議運動(Road Camps and Protests Therefrom)

  シュガー・ビート計画と自立生活者配置案に着手していた頃、多くの成人男性が、当時進められていた資源省管下の道路建設現場に送られていた。道路現場で働いている日系労働者のかなりの数が既婚者であった。

  彼らは家族から強制的に引き離されたことにより、現場では深刻な問題が生じていた。いわゆる座り込みスト(Sit-down Strike)が起こったのである。不幸にも、多くの造反者(スト参加者)が捕虜収容所に送られる事態となった。結果としてあからさまな暴力沙汰はなかったけれども、たびたびのストは明らかに、家族と一緒になりたいという欲求の現れであった。この不幸な事態(家族分離政策)は、本委員会の承認のもとに実施されたものではなかった。前にも述べたように、本委員会(BCSC)が機能し始める以前に、既にこの事態は生じていたのである。

  日系人の強制移動と収容の実施にあたって、BCSCが成人男性とその家族とを分離する案を作成したのではなかった。むしろテイラーとミードは、家族単位の移動と収容を推進しようと苦労したのである。

  この非人道的家族分離案は、オタワ政府の計画として強く推進され、BCSCは、その計画通りに実施しなければならなかったのが実情であった。しかもBCSCは連邦政府に何度か交渉して、自給移動案、あるいは自活生活者配置案を示して、オタワの家族分離政策を撤回させようと説得したのである。連邦政府の強硬派は、当時の内閣府日系人問題委員会と法務省のルイ・サンローランであったとされる。

 その七 建築計画(Building Program)

  従って、以下のような強力な陳情がオタワに対して行われたのである。それは、これまでの方針(家族分離収容)は廃棄して、家族を一緒にし、反日感情があらわでない地域に移動させ、そこに多数の彼らの住宅を建設すべきだ、というものであった。

  候補地域は主として、スローカン峡谷の鉱山跡地であった。廃棄された鉱山町が幾つかあった。既に全体的に調査済みであった。そこにはまだ住める、たくさんの住宅があったのである。

  本委員会は建設計画を推進する権限を与えられた。この年の7月までに大規模な建築計画がスローカン、ニュー・デンバーそしてまたレモン・クリークとローズベリーの近接地域で実施された。

  カナダ太平洋鉄道のKV線沿線のカズロ、グリーン・ウッド、サンドンなどの町は、多数の日系家族を収容するのに廃屋が使われた。ここでは新しく住居は建造されなかったけれども、既にそこにあった廃屋で十分収容可能であった。その建物群は本委員会に引き継がれたのであった。

  トライツ牧場跡にもう一つの収容地を見つけた。計画中のホープ・プリンストン間ハイウエー上にあり、ホープからほぼ14哩(マイル)ほどであった。この土地は国防省を通じてリースしたものであった。かなりの日系人口を収容できる多数の小住宅を備えたのである。

  住宅建造計画には全般に日系人労働者が、白人の監督者の下に雇用された。驚くべきことに短期間に一千百戸が完成して、直ちに日系家族が入居した。家は主に十四×二十五フィートで、荒削りの木材とタール・ペイパーでできていた。大きめの長屋が地区ごとに建てられ、独身男子用に供された。

  この内陸部の住居建造計画はこの報告書では別に記載されることになる。


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