盛岡タイムス Web News 2013年  12月  28日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉347 岡澤敏男 島地大等に御目見えした賢治


 ■島地大等にお目見えした賢治

  賢治が島地大等に初めて接するのは中学3年(明治44)の夏のことでした。大等は大沢温泉にて開かれる花巻仏教会の夏期講習会(8月4日〜11日)の講師として招かれ「大乗起信論」を講義したという。父親の政次郎はあいにく胃腸の具合が悪くなったので、5日から賢治を代わりに出席させたと暁烏敏宛て書簡(8月6日付)にみられる。なお書簡には、夏期講習会に先立つ8月1日〜3日までの3日間「島地大等先生を煩はハし光徳寺(浄土真宗・本願寺派)で講演の会開き候」とあるので、政次郎の病状いかんではこの講演会にも賢治を代参させたのかもしれない。

  いずれにしても「文語詩篇」ノートの3年生8月の欄に「島地大等 白百合の花 海軍少佐」と書かれたメモがそれに該当するものとみられる。白百合は暁烏敏に頼まれ野生の百合を集めたもの。海軍少佐は近所の軍人があいさつにみえたことをメモしたという。しかし賢治は「大乗起信論」について何もメモしていないが、願教寺(浄土真宗・本願寺派)住職である島地大等の人間性には魅力を感じたのではなかったか。

     
   ■島地大等上人の肖像  
 
 ■島地大等上人の肖像
 


  ちょうどその頃のことらしい。盛岡中学で同級(白堊同級会名簿に不明)という吉岡閑は、菩提寺が願教寺だったので「賢治君は私の母に連れられて(願教寺へ)行った」と「若き日の宮沢賢治」(『四次元』第一巻第二号)で語っている。行ったのは、あるいは「報恩講」の日だったのではなかろうか。「報恩講」とは親鸞聖人の往生(旧暦11月)を祈念したもので、真宗大谷派では1月9日から一週間行なわれるが、願教寺では10月に開かれたものらしい。後に賢治は報恩講に何度か通っているが、この日が最初だったのかも知れない。大等は「報恩講さまお迎へのために」という短文を書いている。その一節に「本道に門戸無し。青年も老年も学生も先生も、紳士も淑女も、貧人も富豪も、官吏も会社員も、政治家も実業家も、地主も小作人も親も子も、夫も妻も、兄弟も姉妹も何んな地位階級に属する方々も、一様に区別を忘れて、お念仏もろとも平等に、御真影様の御前に跪かせていただくこと、そこに報恩講さまが現れてくださって居られます」と述べている。これが報恩講の基本だったのでしょう。その後に大等は正信偈・歎異抄・教行信證などの講義を行なったとみられるが、賢治の気持には宮沢家の毎朝の「おつとめ」とさして変わりがないという感想を持ったのかも知れない。だが賢治は僧侶としての大等の一面に触れたものにすぎなかった。

  たしかに、大等は「宗教的には常に阿弥陀仏に対する誠実なる信者であり、真宗の真摯な僧侶であった」が、一つの宗派に縛られず各宗派の仏説にも通じる学僧であったから、明治39年から43年の5年間にわたり諸大学の仏教講座を受け持っていた。曹洞宗大学(駒沢大学の前身)では大乗起信論・三論・唯識学や日本天台学・真宗学などを講じ、浄土宗立宗教大学においては天台学・真宗学・大乗起信論・天台玄義・止観・妙法を、大崎日蓮宗大学では天台教理史・仏教教理史などを、天台宗大学では天台教理史・仏教教理史・華厳五教章・起信論議記などを、東洋大学では華厳学・起信論・法相学・倶舎論・仏教研究法・仏教概論を講じ、大正8年には東京帝国大学の講師に就任し、インド哲学第三講座の創設をしたという。

  このように大等が天台哲学の泰斗として名高かったことをまだ賢治は知る由もなかったのです。


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