盛岡タイムス Web News 2014年  1月  5日 (日)

       

■ 〈盛岡訪れた映画人〉7 大澤喜久雄 「岩下志麻」

 昭和52(1977)年秋、シネ研副会長のSさんから緊急通知があった。盛岡松竹の支配人から連絡が入り、2日後に岩下志麻が来盛。民放局での番組収録を終えたあと、夕方40分ほど時間が空くので、シネ研有志が集まれないか−というもの。

  折あしく照井会長は旅行中(ハリウッドの各施設見学)で不在、私が電話して5人をかき集めた。当時、盛岡松竹の地下に「不二屋」というレストランがあり、支配人氏が懇談会場に設定してくれた。

  トップ女優の岩下がなぜこんな地方回りを―と首をひねる会員もいたが、その理由は明らかだった。1カ月ほど前に封切られた「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」(77年・表現社)が、批評家たちからは好評だったものの、村々を門付けして回る盲目の女性集団を描いた内容(原作・水上勉)が暗すぎるため、客足はサッパリ。

  岩下が興行のテコ入れを行うのには訳がある。それはこの作品が松竹ではなく、表現社という独立プロ、つまり自前で製作されたからだ。

  製作統括が父親の岩下清、監督・脚本が夫君の篠田正浩、そして撮影は名手宮川一夫、音楽は実力派の武満徹。役者は劇団民芸の重鎮・奈良岡朋子に原田芳雄、浜村純、樹木希林ほか新劇畑の芸達者をそろえている。つまり金のかかる布陣だ。

  いくら芸術性が高かろうが、批評家たちからホメられようが、客が入らなくては相当額の赤字を背負うことになる。大スターの岩下が作品PRのため盛岡にまで乗り込んで来たのは、そういう背景があってのこと−と推察した。
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  岩下志麻(本名)は41年、東京生まれ。父親の清は新劇の「新協劇団」座長で芸名は野々村潔、母(山岸美代子)も女優で、劇団民芸の宇野重吉と「火山灰地」などで共演していたが、長女志麻が生まれると同時に引退した。

  その志麻だが、60年、成城大学入学と同時に松竹入社。翌年には若手の看板女優となって多くの本数をこなすようになり、大学は中退して女優業に専念する。67年、篠田正浩監督と結婚、夫婦コンビの製作に軸足が移る。
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  さて、その当日の夕方、中年女性の付き人と不二屋に現われた岩下は、クリーム色のスーツをビシッと決めて貫録十分。応答にも終始笑顔を絶やさなかった。

  −これまで特に印象深い作品は?
  「私は松竹で最も多く出演させていただいたのは野村芳太郎監督の作品で、この中でも山本周五郎さん原作の時代劇「五辨の椿」(64年)が強く印象に残っています。(この作品で岩下は第15回ブルーリボン賞の主演女優賞受賞)

  その後も幕末ものの「暗殺」(64年)などで何度も京都の撮影所に行きましたが、夕方6時くらいに仕事が終わると一人ほっぽり出される感じ。それを見かねて篠田監督がなじみの店へ飲みに連れてってくれました。

  私は意外とお酒が好き、というか強くて、当時芸能界の酒豪番付で大関を張っていたんですよ。横綱は宮城千賀子さんで、この方の量はハンパじゃなかったらしいですね。(彼女は宮城が盛岡出身とは知らないらしい)

  それと小津安二郎監督の遺作となった「秋刀魚の味」(62年)に、笠智衆さんと主役で出させていただいたのは光栄でした。小津先生はきっちりした演技指導をされる方で、とても勉強になりました」

  −盲目のゴゼを演ずるのに、どのような役作りを?
  「私は役にのめり込む方なので、ほぼ3カ月間の撮影中、ロケ地への移動バスでも、自宅で家事などをするときも、なるべく目を閉じるようにしていました。最初は怖かったんですが、徐々に慣れてカメラが本番になったときは、おりんと一体化したような気持ちになれました」

  話題がゴゼの役作りになると、岩下の舌は滑らかになったが、やがて夫君と二人三脚の苦しい製作過程を思い出したか、目にキラリと光るものもにじませた。

  このとき以後「はなれ瞽女おりん」は〈岩下迫真の名演技!〉と、「キネマ旬報」「近代映画」など専門5誌や、各新聞批評欄でも絶賛され、岩下はその年創設された第1回日本アカデミー賞・主演女優賞を受賞。そして観客動員数は右肩上がりに急増した。  (旧盛岡シネ研幹事)


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