盛岡タイムス Web News 2014年  1月  15日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉205 三浦勲夫 偽善と偽悪


 「偽善」という単語は英語にもあるが「偽悪」という単語は英語にはない。こういえば大方の人は驚く。自分もそれを知って驚いた。「偽善」は「ヒポクリジー」hypocrisyである。「偽悪」があってもよさそうだが一語では言えない。もちろん「わざと悪者ぶること」と説明的には言える。

  なぜないのだろうか? 理由を聞いたことはないから推測になるのだが、ひょっとしてこれはキリスト教の「原罪」の観念と関係があるのかと思う。人は原罪を抱えた存在である。悪の種を心に宿している。性悪説の人間が「悪ぶる」ことは不可能な自家撞着(どうちゃく)と考えられるのではないか。

  日本語で「偽悪」という言葉が成り立つのは、前提として「人は善の存在である」と考えられているからではないか。「善なる人が悪ぶる」ことは自家撞着ではない。善なる人に「悪」がとりついて「悪人」となる。人はもとはまっさらな、汚れのない存在と考えられているのではないか。悪人が善人ぶることは西洋でも日本でも「偽善」という。

  親鸞は「歎異抄」(たんにしょう)で「善人なおもて往生を遂ぐ」といった。善人はまっさらな善人でもあり、悪に少し染まった善人でもある。阿弥陀仏の力を求める念仏を唱えれば心が浄化されて浄土入りをすることができる。「悪」の種を宿していても、である。ならば「悪人」でも阿弥陀仏にすがって「悪」を除けば「善人」として浄土入りが果たせる。「いわんや悪人をや」である。しかしこれは「偽善」や「偽善者」では通じないだろう。

  このようなことを考えたのは、季節柄、「除夜の鐘」とか節分の「豆まき」を考えたからである。日本人は伝統的に悪や罪や苦を一時的に払っても、またそれらに取りつかれると考える。「清め」や「おはらい」を繰り返さなければならない。何度も繰り返して、自分の弱さを確認して悪を払う儀式を通過しなければならない。

  「偽悪」といえば根本には「自分は悪ではない」という前提がある。多少の悪が心に存在しても小さい悪ならば、目をつぶって「善」であるとする。その態度が「偽悪」という言葉を生み出す。清濁併せのむ態度である。弱い人間が互いに助け合って生きる世の中では、致し方ない方便でもあるとされるのではないか。以上は私的な臆測である。

  日本語と外国語の表現は大きな齟齬(そご)を時々来す。最近の例では「失望した」がある。日中、日韓関係がぎくしゃくする中で、安倍総理大臣が昨年暮れに靖国神社参拝を行い、両国は猛反発した。米国も参拝に「失望した」(disappointed)と表現した。これは日本語の「遺憾」「残念」「がっかり」に当たる。日本語で「遺憾である」は自分の行いを謝る場合と、他者の行いを責める場合がある。「ソーリー」を使って「アイ・アム・ソーリー」といえばそれはまず自分が謝る「ごめんなさい」である。他人の行いに対して自分が「遺憾」であるという意味ではdisappointedを用いる。今年の年賀状を読むと、日本の英語教育も大きな変化を乗り越えつつあり、現場の先生方も果敢に取り組んでいる。赤、青、レッド、ブルー、などの両言語の「大同小異」の手ほどきから、やがては「遺憾」、disappointed, sorryなどの「小同大異」に導く指導が必要となる。
(岩手大学名誉教授)


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