盛岡タイムス Web News 2014年  1月  27日 (月)

       

■  〈盛岡藩ゆかりの戦国武将─秀吉うならせた宮部継潤〉9 矢萩昭二 大名権力行使できる資格


     
  豊岡城(亀城・城崎城)跡  
 
豊岡城(亀城・城崎城)跡
 

 ■初代豊岡城主、宮部継潤

  二方郡(兵庫県北西部)を与えられた宮部善祥坊は、城崎郡豊岡の神武山に城を築き、その北麓から円山川沿いにかけて、城下町づくりを行い、今の豊岡の町の原形を造ったといわれている。(豊岡市史)

  しかし統治する二方郡は豊岡とはかけ離れており、どうして豊岡が選ばれたかは判然としない。確かに、豊岡は古来より城崎と呼ばれ、すでに秀吉は、日本海と結ぶ円山川沿い小田井(豊岡市)に禁制を発布して軍事拠点として掌握していた。また、物資の集散地として前領主山名氏も垣屋氏をおいて海上輸送を担当させている。このような軍事・交通上の要衝、豊岡が選定されたのは当然のことと考えられるが、「武功夜話」には「但州境田井宮部善祥坊居城地」とあり、宮部氏の本拠を旧浜坂町田井に比定している。また、宮部領は豊岡付近と美含郡(香住町)の一部を含んだ二方郡であるから矛盾はしないとする説もある。いずれ断定するには至らないが、大事なことは秀吉家中にあって、善祥坊はこの時点で大名権力を行使できる資格をもったということであろう。それでは豊岡城主としてどんな支配を行ったか興味のあるところだが、信長家臣、秀吉与力という立場からすれば、織田方式に拘束されながら遂行せざるを得なかった。すなわち楽市楽座・関所の撤廃・検地・城破りなどを模範に、天正10年、鳥取城に移るまでのわずか2年弱の間、着実に行っていったであろう。その様子は不明だが、積極的に豊岡平野の新田開発を奨励し、家臣浅見弥市に命じて田畑を調査させた検地帳が残っており、山名氏退去後の領内の再把握が行われたであろうことは確実である。(但馬史)

     
  宮部継潤をまつる御霊神社(豊岡市中町)  
 
宮部継潤をまつる御霊神社(豊岡市中町)
 


  ■宮部家臣団の形成

  ところで、城持身分となり、秀吉の意向をうけて領内を統治するためには多くの家臣が必要になる。また領地拡大に伴い、それに見合う新たな給人を召抱えなければならない。新規採用について信長の掟書には大名の本国出身者から「奉公望みの者」があれば、身分を質(ただ)したうえで扶持を与えるという規定があり、善祥坊もこれに従い、家臣の採用を行ったとみられるが、それだけで足りない。現地の者も召抱えたであろう。山名氏の有力武将、垣屋豊続もその一人だが、まず秀吉から下された知行宛行には善祥坊所領のうちから2000石を給付し、「善淨被属一手」と指示され、宮部の軍編成の一翼となることを強制されている。さらに宮部善祥坊からも、天正8年6月23日付書状で、新たに1000石の地を与えられた。垣屋氏はこのような給付過程を踏みながら宮部家臣団に吸収されていったのである。(垣屋文書)

  後に宮部家臣団に但馬衆・因幡衆と見えるのは彼らを指し、この後九州での戦い・小田原合戦・朝鮮出兵と宮部氏を旗頭とする宮部家臣団が成立し、その軍事体制は関が原合戦まで続くのである。

  ■卓越した城下町づくり

  さて、豊岡在城時代に、善祥坊が善政として世に知られるのは、豊岡の五町に地子(年貢)諸役免除の恩典を与えたということであろう。

  但馬豊岡城崎郡豊岡町、高八十三石、南ハ亀ケ崎、北ハ北由羅限、右地質銭、諸役、令免許了。永不可有相違者也。

  宮部善淨坊継潤(花押)天正十年九月
        豊岡中

  五町とは「豊岡細見抄」の甲崎町・宵田町・中町・滋茂町・浦町をさすが、この区域の商人問屋を優遇し、名主には特権を与えて、城下町発展の中核として育成しようとした。経済感覚に優れた善祥坊が信長・秀吉より積極的に商工業の発展に意を注いでいたことが注目される。彼らは宮部善祥坊が鳥取に移ってもその恩を忘れず、死後豊岡城下中町に、御霊大明神(御霊神社)を建て、その霊を祀(まつ)ったという。今でも5月10日には例祭が執行される。
(八幡平市博物館前館長) 


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