盛岡タイムス Web News 2014年  1月  30日 (木)

       

■  〈風の筆〉35 沢村澄子 「コンプレックス」


 個展を本紙の記事にしていただいて、その見出し「自由に味わう読めない書」が面白かった、ということを先週書いた。

  お礼のメールを担当者に送ると、「書(現代美術でも)は文字を読めないことがプレッシャーになって展示会の敷居が高くなるという人も少なくないと思います。読めない自分に劣等感を持ったりして。見る側が字を簡単に読み取れなくてもいいんだと、考えを切り替えてもらえる人が1人でも増えたら幸いです」という返事。とてもうれしかった。

  しかし、読めないことが鑑賞者のコンプレックスになっているとは知らなかった。自分は感受性が異常に強く、読めない(分からない)ということがまずないので、勘違いであれ何であれ、何かしらの情報を勝手気まま、我流にキャッチして納得し、たとえそれが妄想三昧(ざんまい)であったとしても、そこで自身苦しむことがなかったから。

  そして、画であれ書であれ音楽だって、ただ自分の感じるままに、自由に好きに味わっていいんだと思っていた。何かを「読めない」「知らない」というコンプレックスがそこを妨げるなんて、思いもよらなかった。

  いや、しかし。やっぱり唐突に言い切ってみたいのだけれど、どんなアート作品に向かうときにも、コンプレックスは要らないでしょう。そこに答えなんかないんだから。

  そこにあるのはせいぜい「問い」だけ。ただ素直に対象に向かえば、その時、最も、それはその本質を開示してくれる。

  ところで、今回の個展中、グループでいらしたお客さまが記念写真を撮ろうと作品の前に並ばれた。すると、本心では写りたくないわたしもそこに入らざるを得なくなった。どうして写真が嫌いかって、やっぱり器量、容姿がよくないからで、それもコンプレックスに違いないのだけど、まあ、そこはゴクンと飲み込んでニコニコしながら列に並んだのである。すると、「私は美人じゃないから」と写ろうとしない方が1人いらした。

  これまで、いつも華やかな美人さんたちと一緒の、その方がそんなコンプレックスを抱えていらっしゃることに気付いていないわけではなかったけれど、今回、その方を見ていて思った。

  わが身を「足りぬ」「至らぬ」「美しくない」と恥じるその心が、その人の本当の美しさを守っているのかもしれない。恥じているからこそ油断も起こらず、浮き足立ちもしない。

  わが身を守るコンプレックス。そんな一面もあるのだな。 (盛岡市、書家)


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