盛岡タイムス Web News 2014年  2月  6日 (木)

       

■  〈風の筆〉36 沢村澄子 「どこからか、声」


 わたしにも奇妙なところが幾つかある。

  例えば、「なぜ『いろは歌』を書くんですか」と聞かれて「降ってきたから」と答えると、よく冗談かと思われるが、これは本当で、「いろは歌」に限らず、何かが降ってくるような、どこかから声がして導かれていくような、そんな経験が頻繁。

  2007年に岩手県立美術館で村上昭夫詩集『動物哀歌』が朗読され、わたしはその詩の断片を美術館に張り巡らせた白い紙に一時間書き続けるというパフォーマンスをした。それは翌日から3日間、熱を上げて寝込んでしまうくらい体力を消耗するものだったのだが、その必死に書いている最中に聞こえてきた声が「主客は常に逆転する」。

  またある日には、出掛けるために玄関で靴を履いているところに荷物が届き、箱を開けてみると平面の作品。画用紙の真ん中にボールペンで線が1本引かれてあり、その上下に絵の具でぴょんぴょんと2筆触、色がのせられてあって「あらら…」。また奇妙な作品が届いたもんだと、とりあえずふたをして車に乗り、高速道を運転するわたしの頭に、「覚醒」「覚醒」と何度もその単語がこだまする。妙に思って、用先で広辞苑を借りて「覚醒」を引いてみたが、ふに落ちず、不思議で仕方ないが、ワケも分からない。ところが、帰宅してその作品の裏を見たら、タイトルが「覚醒の谷深く」。

  こんな例には事欠かず、書き切れもしない。そしてこのたびは、今回の個展用の大作を書き始めて数日して、「全肯定へ」という言葉がなぜか落ちてきたのだ。

  「全肯定へ」って、やっぱりもう一つ意味がよく分からなかったのだが、会場にこの数年に作った掛け軸をずらり並べてみたら、ハッとした。その中に禅語の「無事」「両忘」を書いたものがあり、聞きかじりの知識だが、「無事」とは、造作ない平常の状態、あるがままをよしとする、ことらしく、「無事に帰って来てください」のように使う意味とは違うらしい。「両忘(りょうぼう)」とは両方(内と外、生と死などの二元性)を超越することを指すという。

  なぜ、昔、「無事」「両忘」と書いたかといえば、やはりその時その言葉が落ちてきたから、と思い返すのだが(その意味もよく分からないまま)、今思うに、この二語はおおよそ同じことを指しているのではあるまいか。

  実は、コトは無いのだ。善も悪も。愛も憎も。主も客も。何も無い。無いのだから、それら両方、というより、当然全てを忘れていてよい。

  ヘンな声に導かれるわたし。今はとりあえずそのように解釈して、全肯定(是も非もない世界)へ向かっているのかな…。
     (盛岡市、書家)


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