盛岡タイムス Web News 2014年  2月  8日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉352 岡澤敏男 『妙法蓮華経』に感動

 ■『妙法蓮華経』に感動

  ずいぶん古い記憶です。学燈社の『宮沢賢治必携』(昭和55年「別冊国文学」bU)で万田務氏が賢治と法華教信仰について従来の諸論を取り上げ「真宗信仰から法華教信仰への直接の転換がいまだに究明されていない」(「残された課題」)との指摘に注目したが、その2年後(昭和57年)に洋々社『宮沢賢治』(1982年第2号)に小倉豊文氏は「二つのブラック・ボックス」のなかで、万田氏が指摘した「法華教への直接の転換」について「電車の線路切替えのように、一時に確然と転換したと考えねばならぬが、私にはそう考えられない」との見解には、なお強く引かれるものがあった。たしかに賢治の行状からみると、真宗信仰から法華教信仰への転換は軌道ポイント切り替えのように確然とはせず、真宗(願教寺)〜禅宗(報恩寺)や法華教〜禅宗といったジグザグめいた信仰遍歴がみられ、そのような賢治の信仰仕組みを小倉氏は「ブラック・ボックス」と比喩したものらしい。

  ともあれ、賢治の法華教信仰のきっかけは島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』に始まったといわれる。しかしその経典(法華教)に接した時期には賢治自身の資料がなく、年譜などは令弟清六氏の記憶に基づいて編まれているらしい。

  「いよいよ受験準備(盛岡高等農林学校への)に取り掛かった賢治に、その夏(大正3年)特筆すべきことが起こった。それは父が常に宗教のことで尊敬していた高橋勘太郎という人から贈られた国訳妙法蓮華経を賢治が読んだということである。…その中の〈如来寿量品〉を読んだときに特に感動して、驚喜して身体が震えて止まらなかったと言う。後年この感動をノートに〈太陽昇る〉とも書いている」(『兄のトランク』所収「兄賢治の生涯」より)と、清六氏は記憶しておられ、「年譜」(『校本 宮沢賢治全集』)には大正3年9月の項に「島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで異常な感動を受ける」との記述が見られる。

  しかし小倉氏は、賢治が大等の『妙法蓮華経』を読んだのは受験準備に集中する時期(大正3年秋〜大正4年3月)であるはずはなく、視点を盛岡高等農林に合格した後に移して「おそらくその時期は、少なくとも高等農林在学中と考えねばならぬ」と、年譜とは異なる見解を述べている。いずれにしても、賢治の言動には二面性があって「一方では完全に自己を露出するような言動をしながら、他面では、心の機微を深く蔵して決して人には見せないのが賢治の修羅的性格」(小野隆祥『宮沢賢治の思索と信仰』)だという。従って賢治が『妙法蓮華経』を初めて手にして「如来寿量品」を読んだとき「驚喜して身体が震えて止まらなかった」という感動は深く蔵してしまい、それを短歌作品に漏らすはずはなく、証言を短歌に期待するのは難しいと考えられます。

  しかし大正5年1学期に、賢治(南寮9号室長)と同室だった1年下の工藤(原戸)藤一は「宮沢さんが私と同室の時、宗教にご熱心で時々願教寺へお参りになり修練をせられておりました。…宮沢さんは寮の部屋から出て時々図書館の裏に行き、南無妙法蓮華経をとなえられたそうです」(『赤きポランのひろば』)と証言している。この御題目の独誦を通じて、初めて『妙法蓮華経』を読んだとみられるXデーを、「少なくとも1年在学中」と推定する手掛かりにはなるのかも知れない。

宮沢清六著『兄のトランク』より
    「兄賢治の生涯」より抜粋

 漸く病気も直って帰宅、店の番をしたり養蚕の桑つみを手伝ったりしたが、勝れない顔で悲しい歌ばかり創っている賢治を見て、両親とも商売はとても性に合わないと考え、盛岡高等農林学校に進学させる決心をした。 

  いよいよ受験準備に取りかかった賢治に、その夏特筆すべきことが起った。それは父が常に宗教のことで尊敬していた高橋勘太郎という人から父に贈られた国訳妙法蓮華経を賢治が読んだということです。

  この本は前年から説教を聞いていた浄土真宗の島地大等の編輯したもので、その中の「如来寿量品」を読んだときな特に感動して、驚喜して身体がふるえて止まらなかったと言う。後年この感激をノートに「太陽昇る」とも書いている。以後賢治はこの経典を常に座右に置いて大切にし、生涯この経典から離れることはなかった。(以下略) 

 

 


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