盛岡タイムス Web News 2014年  2月  20日 (木)

       

■  〈風の筆〉38 沢村澄子 「サウイフモノ」


 最近気になるものに「サウイフモノ」というのがある。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の詩の中で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と語った「サウイフモノ」である。

  わたしの賢治体験は相当貧しく、皆無に近い。まず、小学5年生で読書感想文課題に『銀河鉄道の夜』が出たが、少し読んで挫折した。怖かった。あんまり怖くて(今何が怖かったのか思い出せないのだが)、どうしても読み続けられなかった。次に25歳ごろ、盛岡に来て家庭教師のアルバイト。そこで小学生の教科書に「やまなし」が載っているのを読み、その音の美しさに驚く。それから、2005年のアート@土澤。花巻市と合併直前の東和町の取り壊される工場の木の壁に、左手に詩集、右手にノミで8日間、「雨ニモマケズ」の全文を刻みつけた。

  たったそれくらいの経験しかないのに、なぜか最近、「わたしはこの先賢治を書くんだな…」と思うのである。ワケはわからないが、なぜかしらそんな気がする。

  ならば当然、これから賢治の著作を読むのだろうが、そこでやはり気になるのは「サウイフモノ」である。

  「サウイフモノ」って一体何なのか。そして、わたしも賢治同様「サウイフモノ」になりたいのか。

  わたしが子どもの頃からなりたかったものに「ただの人」「フツーの人」というのがあって、これもまた、いまひとつどんな人なのかよくわからない。みんな普通の人ではないかと言ってしまえばまさにその通りだし、しかし、おそらく自分は、何でもないもの≠ノ憧れてきたのだと思う。他愛ないもの。その自然(じねん)。

  多くの人がそこから離れ、あたかも何かしらのもののように生きていることが、おそらくこの感覚にしっくりとこなかったのだろう。

  それにしても、「サウイフモノ」が何者かというのは、解決までにこの先長くかかるような気がするし、賢治の「サウイフモノ」とわたしの「フツーの人」が一緒なのか違うのかという問いもまた、ゆるりと一人、書きながら(書をしながら)問うていくしかない質のものだろうと思う。

  ところで、昨夏、真っ黒な「いろは歌」を書いたわたしは、「次はもっとフツー(の作品)を書こう」と思ったのだ。ただ字を書いただけ、当然読める、「い、ろ、は、に、ほ、へ…」と淡々と文字を並べた「いろは帳(表)」を作ろうと考えた。そして、「フツーに」「フツーに」と自分に言い聞かせながらそれを書き続けていたある日、「ダメだ!これではフツーだ!」と心中、大声で叫ばれて、さらに、「何言ってんだ!フツーに書きたかったはずじゃないか!」と自分を叱咤(しった)した瞬間に気付いた、わたしが本当に書きたかったものは「フツー」なものではなく「普遍」的なものだったということ。
  (盛岡市、書家)


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