盛岡タイムス Web News 2014年  3月  1日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉355 岡澤敏男 報恩寺と尾崎文英 

 

 ■報恩寺と尾崎文英

  田中喜多美著『報恩寺の沿革』によると、報恩寺は応永年中(1394〜1427)に南部守行公(13代)の開基といわれ、およそ600年の歴史に聞こえた名刹(めいさつ)としての名声がある。本堂脇の羅漢堂は享保19年(1734)に17世曇樹一華和尚によって建立され、収納する五百羅漢の像は享保16年から19年まで4年もかかり京都の7人の仏師によって造られたものといわれる。報恩寺はこのように南部家から禄を給され南部領内曹洞208カ寺の僧禄司だったが、明治維新後は寺禄を失って寺門の経営にも事欠くことになった。苦難の中で27世泰中喜道和尚は、時流に屈せず本堂・庫裏・羅漢堂・土蔵などの建物をすべて護持し、着々と寺運を盛り上げ今日の報恩寺興隆の基を築いた名僧であった。また29世の佐伯旭庵和尚も座禅のできる僧堂の開設、禅学会を創始し、羅漢堂の修復を行なうなど寺運興隆に尽くした高徳の僧として一般市民にも親しまれていた。

  人望家旭庵和尚の後住となって30世和尚となるのが尾崎文英で、可睡齊の住職日置黙仙のまな弟子であったらしい。尾崎文英も日置黙仙も鳥取県出身で同郷のよしみだったのかもしれない。佐伯旭庵も可睡齊で日置黙仙に師事したこともあり文英と旭庵は法弟の関係にあった。

  可睡齊とは静岡県袋井市久能にある曹洞宗の名刹で変わった寺名だが、もとは東陽軒と名付ける草庵だったらしい。それが11世鳳林等膳のときに、人質となっていた幼い徳川家康を救って国元へ返した縁で家康の帰依をうけて、慶長17年(1612)に寺が増築され可睡齊と改めたが、その寺名のいわれが面白い。ある日、草庵を訪れた家康の前で、疲れていた住職がついうとうとと眠ってしまったが、家康は笑って古事にも「睡るのも可」とあると漏らしたという。その後、家康から伊豆・駿河・遠江・三河四カ国の曹洞宗の僧祿司とし十万石の礼をもって遇されることになった。なお、この寺は曹洞宗管長に次ぐ大徳の住職が住するものといわれるが、日置黙仙は大正5年に永平寺の管首に推され、翌年曹洞宗管長になっていることが仏教書にみられる。

  旭庵も文英も日置黙仙のまな弟子であった縁によるものなのか、報恩寺30世住職として尾崎文英を招聘(しょうへい)する動きが法類末山をはじめ檀家総代、禅学会員その他有志一同からあったことが当時の新聞記事にみられるが、必ずしもすんなり受け入れられたのではないらしい。「その後去る三日に至り突然尾崎老師より報恩寺へ宛て電報を以て不承知の旨伝へ来りしより一同大に失望落胆し」末寺を代表して祇陀寺住職が可睡齊に赴いて懇請し、また総持寺専師柿崎素明が急きょ日置禅師を通じて説得を図ったところ、ようやく承諾するに至ったという。そうした経緯が『岩手日報』(大正2年3月7日)に「尾崎老師承諾す」と報じられている。尾崎文英が最初はなぜ報恩寺に赴任するのを断ったのか。「尾崎が来たとき、日置師から手紙が来て、盛岡には合わない者かも知れない」とあったと、鈴木巌氏(森荘已池著『私たちの詩人宮沢賢治』)が森氏に伝えている。尾崎文英が承諾を渋ったことと、彼の師の日置黙仙が文英を「盛岡に合わない者かも知れない」と漏らした内容とはない交ぜの一本のひもだったのかもしれない。



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