盛岡タイムス Web News 2014年  3月  26日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉377 伊藤幸子 「修証義の章」


 生き死にのあらぬ時間の中なりしか目覚むるきはのわれのうるほひ
                                   森岡貞香

 「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」と語りつがれて久しいが、今年は記録的な大雪に見舞われた。仏事は小正月の16日、うちのあたりでは「地獄の釜の蓋(ふた)も開く日」ということでお墓参りをするが、墓守の務めもあれ以来だ。きょうは湿った雪が多く、ようやく自分の先祖の眠る場所を清めて造花を片付けて持参の生花を供える。

  墓群を隔てて、にぎやかな人声が聞こえた。さっき、水おけを提げた人とすれ違ったが、あの若いお嫁さんかもしれない。今はみな外で働いているから、見かけない顔は、新しく地域に加わった嫁さんたちだろう。20年ぐらい前には中国からの花嫁もいた。もちろん今も立派に農業後継者として安定しているところも多いが、逆の例も聞くと、子連れの嘆きはいかばかりかと心が曇る。それにしても楽しそうな会話と思ったら、なんと携帯電話が相手だった。

  「生き死にのあらぬ時間」といえば、平成2年に100歳で世を去られた土屋文明の、「終りなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ」を思い出す。森岡さんは平成21年1月、93歳にて亡くなられ「束の間のあとさき」の時の量感を思う。

  掲出歌は平成15年「歌壇」1月号に掲載の新春作品の16首。作者87歳の感慨である。「鳴神(なるかみ)のとほさかりつつつるばらのつる揺れゐたり時の過ぐるか」「厨房は奥行を見す甘藍も水菜も大根も置きてゆふぐれ」「3Bのえんぴつのつと隠るるを物憂きに手をのばすなかりき」

  私は常に4Bの鉛筆をダースで買っている。作者は使いなれている鉛筆をふっと見失うが、なんだか面倒で探す気にもならないと詠まれる。同じくキャベツも水菜も大根も、料理しないでいる間に、もの憂く時がすぎてゆく。あたかも「厨房は奥行を見す」のとらえ方に打たれた。春分の陽光は真東から射し、わが家の乱雑な厨でも怠惰な主婦を責める野菜たちの声が聞こえる。

  雪は小止みになり帰る道々、なんだか小指の下あたりがひりひりする。そうか、さっき線香の灰がこぼれたのを知らずにいたのだ。去年、孫もそう言い、それにママが薬塗りましょう、抗ヒスタミンがどうのと騒いだのを思い出した。過保護と笑った愚かな祖母は今、熱い、痛いと眉をひそめる。

  この時、不意に「生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」との修証義の章がよみがえった。自らの痛みを通してようやく「生き死にの時間」の尊さを知る思いである。
  (八幡平市、歌人)



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