盛岡タイムス Web News 2014年  5月  2日 (金)

       

■  続・志和の藩境塚 〈1〉13年度後期調査の成果


     
  13年度の調査で確認された18番塚(紫波町志和公民館指導員・熊谷育子さん撮影)  
  13年度の調査で確認された18番塚(紫波町志和公民館指導員・熊谷育子さん撮影)
 

 2011年度から始まった八戸、盛岡両藩の藩境塚調査は、4年度目を迎えた。両藩の藩境塚については、昨年4月から6月にかけて11、12年度と13年度前期の調査経過を合計10回の連載で報告している。今回は13年度の後期調査を、これまでの経過を含めて紹介していく(全7回)。

  両藩の藩境塚は、紫波町志和地区を範囲とする旧7カ村の周囲に、221基の塚が八戸、盛岡藩が交互に構築したもの。旧7カ村は八戸藩の飛び地だが、このうち土舘村内の新山の山頂付近は盛岡藩領、いわゆる飛び地の中の飛び地、この周囲にも両藩の塚が16基設置されている。これを合わせて237基の塚が17世紀に設置されていた。

  志和公民館が藩境塚調査を行う10年前の01年5月、盛岡市内の郷土史家らにより、新山の藩境塚調査が01年5月に行われ、これについても本紙で詳細に紹介した。現段階で確認できているのは1、9、10、11、16番の5基の塚だった。

  志和地区の周囲に構築された221基の調査は、11年12月から12年3月にかけて、志和公民館の北條文雄館長をトップとする調査組織を立ち上げ、基本史料の確認、町教委が11年に発掘し確認した4基の塚の検証、志和地区南部の花巻市境の高速道路手前に幾つか塚があるとの証言を受けての確認から始まった。11年度に確認されたのが片寄二ツ森地内で16、17番の2基の塚だった。

  12年度の調査は4月から10月にかけて行われ、同年度から本格的な調査を開始、紫波町西北の稜線(りょうせん)沿い、南西の花巻市境を中心に調査が行われた。後にGPSを活用することになるが、藩政時代に作成された絵図、藩境塚の位置を示す文書、山道に詳しい人の案内を頼りに手探りで始まった。

  絵図や文書は、藩政時代においては正確に位置を知らせる資料、八戸、盛岡両藩では塚守を置き、塚の修復もされていた。1868年の明治維新から140年以上が経過、現状がどのようになっているのか分からない中で、絵図や文書を頼りに比較しながら推定していくしかなかった。

  この中で志和地区の南西では、新山ゴルフ場から馬の子(まのこ)牧野を経て葛丸ダムまで、33番塚から45番塚までがあると思われる区間を調査。40、41、42、43番の4塚を推定した。

  西北部分は12年秋から重点的に行われ、GPS機能付のカメラも使って七日休峠付近、黒森山付近の稜線沿いを調査。七日休峠付近の稜線からは90、91、92、93、94番の五つの塚、黒森山付近の稜線では106、107、108番の3塚。このほか志和稲荷神社の付近からは112、113、126番の3塚を確認した。

  91番塚は、GPSの位置と絵図の位置が一致したが、同じ場所に二つの塚が存在していた。これについて、何かの理由で新たな塚が構築され、どちらかが古塚、もう一方が新塚ではないかと推定した。
      (荒川聡)
 


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