盛岡タイムス Web News 2014年  5月  19日 (月)

       

■  〈幸遊記〉175 照井顕 エルヴィン・ジョーンズの教え


 ジャズ史上にさんぜんと輝く巨人・ジョンコルトレーン(1926〜67、Ts・ss)カルテットの黄金期のドラマーだった巨匠エルヴィン・ジョーンズ(1927〜2004)が、一関のジャズ喫茶・ベイシーで、マスターの菅原さんと僕を含む、ほんの数人の前で「10年に一度くらい聞いてもらいたい話をする」と訳したエルヴィン夫人。あれは昭和が終ろうとした1988年の夏のことだった。

  「“ジャムセッション”という言葉の生まれは、人を絶対に差別しない。区別しない。一つの物でも分けて食べる。そういった意味からできた言葉」(黒人は明治、大正、昭和の初めまでの日本人の生き方、考え方にすごく似ているところがあった、と言う夫人)。

  「観客(聴衆)に対して絶対に冷たくしない。一人でも聴いてくれる人さえいれば、俺たちは、何時間でも、何十時間でも、たたける、吹ける、演(や)れる、っていう決意があるんです。それは、お金のためでも何でもなく、聴いてくださる方が神様だからです」この言葉は、ジャズマスターの穐吉敏子さんもいう「私たちはブルーカラー(労働者)です。一人でも私たちの音楽を聴きたいという人がいらっしゃれば、私たちはどこにでも行って演奏します」と言っていたことと同じ意味合いだと思ってジーンと、熱くなった。

  「ジョン・コルトレーンと出会って、初めて、自分の勉強してきたことが、本当に評価されるようになった。ということは、どういう階級に生まれたとしても、音楽に対しても生活に対しても、勉強は欠かせないんだってことを知った」そうなのだ。

  そして「日本はもっと国旗を掲げるべきです。国旗と国歌があるから日本なわけで、これがなかったら日本じゃない。どこへ行ったって日本を証明するものは国歌と国旗しかないんです」とも。この言葉には、日本ジャズ専門店の旗印を掲げてた僕でも、“ドキッ”とした。

  “エルヴィン・ジョーンズ”アメリカ・ミシガン州・ボンティアックに教会の子として生まれた。長兄はグレイト・ジャズ・トリオのピアニストでリーダーのハンク・ジョーンズ(1918〜2010)。次兄サド・ジョーンズ(1923〜86)は、昔カウント・ベイシー楽団にいて作編曲もしたトランペッター。ベイシー亡き後、その楽団を率いた人物。3兄弟は一関ベイシーにも深く関わった。僕もかつて、ハンク、エルヴィンを陸前高田に呼んだものでした。
  (カフェジャズ開運橋ジョニー店主) 


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