盛岡タイムス Web News 2014年  6月  1日 (日)

       

■ 立原道造生誕100年「盛岡ノート」いまむかし@詩人が愛した中津川 深沢紅子と画文の友情

     
  立原と四戸家の人々(右から2番目が立原、4番目が紅子)=野の花美術館より  
  立原と四戸家の人々(右から2番目が立原、4番目が紅子)=野の花美術館より
 

 今年は詩人、立原道造(1914−39)の生誕100周年にあたる。立原は1938(昭和13)年9月19日から10月20日まで盛岡に遊び、愛宕山にあった深沢紅子ゆかりの「生々洞」に逗留(とうりゅう)した。その紀行を「盛岡ノート」に著し、「長崎ノート」と対をなして、列島の南北に詩魂を刻んだ。なりわいである建築家の視線で街を理知的に眺め、啄木に酔い、漂泊の哀歌を口ずさむ。「盛岡ノート」は、立原の緻密な詩想の設計図であり、純愛のモニュメントである。作品に見る詩人の足取りを追い、連載で盛岡の今昔を訪ねる。  (毎月1回掲載します)

  立原は東京帝大工学部卒後、石本建築事務所入社。学生時代から辰野賞を受賞するなど、建築界に頭角を表した。詩人としては堀辰雄に師事し37年、詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を刊行。文壇に新進の才を発揮するが、胸を患い、静養の地を求めて旅立った。かねて親交のあった画家の深沢紅子のつてで38年秋、盛岡に1カ月滞在した。

  ノートによると、盛岡の第一印象は、「汽車から降りると、灯のともしい町。小さい車にのって、町をよこぎる。もうハネた活動小屋。県庁や市役所のあたり。生々堂は、田圃やくらい道をとおって 町はずれだった。ここで僕のくらしはようやく 旅をおえて すこししずかになるだろう。疲れはじきに恢復するだろう」

  詩歌に封印された、往時の街並みを読み解こう。立原は夜更けの盛岡駅に降り、おそらく「円タク」を拾い、寂しげな街の灯のもと、開運橋を渡った。新興の商店街として発展していた大通を横目に、終映後の映画館を過ぎれば、内丸の官庁街はひっそり。中津川べりをさかのぼると、実りの秋の向こうに紅子の父、四戸慈文の山荘が見えてくる。

  後日、目抜き通りだった肴町を訪れる。

  「屋上にのぼった かわいらしい町が全部見渡せた 山も見えた 川もみえた 稚拙な雰囲気のあるメイン・ストリートのひとつのデパート」「上の橋の上を光った馬車がゆく 火の見の塔も白い壁の家も平和な正午だ バスが行く」。

  デパートが建ち、バス、タクシーが走り、やっと「帝都」の微風が吹き始めた盛岡は、江戸っ子の立原の目に、いとおしく映った。前年に日中戦争、翌年には欧州で第2次大戦が起こり、軍靴響く世相の中にも、街は小さな繁栄を謳歌(おうか)していた。しかし病身の立原には安息と不安が交錯し、モダニストの美学をかき乱す。

  「僕の愛する平和のためにのみ また、僕自らにかえって来る傷をおそれるためにのみ しかし 僕もまた あまりに 日常的 あまりに 臆病ではないか!」。やがて早世の文学は結実に向かう。

  深沢紅子野の花美術館の石田紘子館長は「立原が盛岡にいた期間に文学を充実することができたのは、紅子や四戸家がおおらかだったからではないか。父のふるさとで安心して過ごしてほしいという紅子の友情があった」と話す。立原の生誕100年については「立原が歩いた道には中央公民館、野の花美術館、県民会館、啄木・賢治青春館、もりおか歴史文化館などがあり、連携して何かできることがあれば素晴らしい」と話し、詩人と画家の友情を、今に語り伝えるよう願う。   (鎌田大介)


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