盛岡タイムス Web News 2014年  7月  10日 (木)

       

■  〈風の筆〉58 沢村澄子 「俗っぽい話」


 しばらく前ここに、風外慧薫(ふうがいえくん)という禅僧について書いた。その風外の図録をある大学の先生にお送りしたら「俗っぽい」と。わたしは「俗気がない」と感想したから、真っ向から意見対立。「俗」の捉え方の違いだろうか。

  昔、高校に勤めていたとき、文化祭で壁新聞を作るとかで、生徒の一人がアンケートを取りにきたことがあり、「結婚相手に望む3条件は」と聞くから「知性、品、色気」と返事し、「どうしても耐えられない人は」という質問には「俗っぽい人」と答えた。すると文化祭当日、リーゼントの一団にぐるり囲まれ、「オレタチのことが気に入らないんだって?」とスゴまれるから何ゴトかと思いきや、アンケートが口頭でのやりとりだったため、「俗っぽい人」のはずが「族っぽい人」と発表され、彼らは暴走族の皆さん。「ゾク」といってもいろいろある。よって、「俗」もまた、さまざまあるに違いない。

  話は脱線ばかりするが、いつか、「良寛より一休の方がつらかったかもしれない」と思う日があって、その時はそう思う意味すら分からなかったのが、やがて、それは俗との関わり方ではないか、と思う日が来た。

  世俗と関わらずに生きられるのなら楽だ。それが出家なのであろうが、そこでの内実がそうでもないなら、そこには葛藤が生じるはず。その苦さと諦めを、一休の書にわたしは感じるのだ。

  書の古典に、紀貫之が書いたと伝えられる(藤原行経の筆という説もある)高野切第一種というのがあって、この真蹟を見た2度とも、思わず涙がボロボロとこぼれ、自分は何と汚れたきたならしいものであろうと、わたしはうなだれた。

  清らかな上品、という点において、高野切第一種というのは今でもその第1位のものと思うが、今度その高野切を見て、わたしはどう感想するのか、わたしは昔ほど俗を嫌っていない。むしろ、そのきたならしさを、昨今愛しさえし始めている。人間。ニンゲン、ジンカン、というものを「そういうもの」(アンチ聖)である、それが「現実」であると、特に震災後、捉え(受け入れ)始めたからだろう。

  風外にも世俗、人間の俗気を否定していない趣を感ずる。否定せず癒着せず。そこに気韻、俗から解放された自由を感じた。

  白状すると、昔わたしは岡本太郎の作品が、画も書も大嫌いだった。汚いと思っていた。ところがこの頃、よいと思う。好きなものは別にあっても、太郎の仕事を尊敬し、一休に通ずるものがあると感じている。

  俗にいて俗を吸い俗にまみれ俗を愛す。人間から離れず、その本質を貫通したものを描(書)く。聖への憧れとはまた別に、この仕事の尊さを、今日強く感じている。
     (盛岡市、書家)


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