盛岡タイムス Web News 2014年  7月  22日 (火)

       

■  「盛岡ノート」いまむかしA 紅子一家が迎えた詩人 四戸孝丸さんの記憶 立原滞在の証し「ちゃぶ台」 愛宕山にあった生々洞


     
  立原が滞在した当時のちゃぶ台と、かつての生々洞の部屋の写真を手にする四戸さん  
  立原が滞在した当時のちゃぶ台と、かつての生々洞の部屋の写真を手にする四戸さん
 

 盛岡に滞在した立原道造は、深沢紅子の実家、四戸家の山荘「生々洞」に滞在した。山荘は1928(昭和3)年から83(昭和58)年まで愛宕山のふもとにあり、現在の家には紅子のおい、四戸孝丸さん(81)が住んでいる。四戸家には立原が使ったちゃぶ台が、詩人の忘れ形見のように残っている。

  立原が滞在した38(昭和13)年秋、岩手女子師範付属小1年だった四戸さんが愛宕山を案内した。「立原さんが来て1カ月の間に道案内するよう言われ、日曜日に2、3回登った。立原さんが私に何を話したかは覚えていない。当時は山の上から姫神山が見えた」。客人の面影はかすんでも、山頂の眺めは鮮やかによみがえる。

  盛岡ノートによると、「盛岡の町がすっかり見渡せる。樹木と家とが微妙にまざりあって、その家のひとつひとつが 出しているうすい煙のために、何ともいえない色彩にうすめられている。そしてすっかり斜めになった夕陽が、そこに弱い遠近をつけて 町がひとつの細かい浮彫のようになって見えるのだ」。

  当時の愛宕山にはホテルや展望台はなく、眼下の街は現在よりずっと狭く、低い軒並みだった。四戸さんは「山道はかなり急で、てっぺんにちょっとした広場があった。盛岡の街にビルらしいビルは、医大と公会堂と松屋デパートくらい」と目を細める。

  士族の四戸家は、愛宕山一帯の南部氏の土地に造成した宅地に山荘を建てた。紅子のつてで静養に来た立原は、父の四戸慈文ら一家の厚意に包まれた。来訪の記念に生々洞前で撮影した集合写真には、小さな四戸さんを抱きかかえる立原がいる。

     
  かつての生々洞(四戸さん提供)  
 
かつての生々洞(四戸さん提供)
 


  四戸さんは「写真を撮ったのは覚えているが、祖父やおばから立原さんのことを聞いたことはあまりない」と、記憶をたぐる。盛岡ノートには「泡立てたオムレツ 無花果の砂糖煮 苺のジャム 家で焼いたフランスパン 熱いココアのこんなにゆたかな 僕のための宴 青い葡萄もフレミッシュものせてあるビスケット」。四戸家の暮らしぶりは、若い東京人のライフスタイルにかなっていた。

  立原は詩作する。「僕は部屋をちいさくしめきってあかりをともす。それからもう寝床にはいってしまう。七時にもならないのに。ここでは汽車の音が芝居の舞台できこえる汽車の音のように聞こえる。何の具合だろうか それがときどきこの僕のこころをファンタスティックにする」。

  四戸さんは「紅子が盛岡に帰ると寄っていたし、立原さんには水戸部アサイさんという女性がいて、その人は盛岡に来て何度かここに来たものなのか…」。やがて国道4号のバイパスが通り、ちまたにのみ込まれた山荘にも、詩人の気配は漂い続けた。

  「この仕事部屋ともさようなら あなたたちの 雪のなかの幸福を祈りながら 青い花の咲く美しい五月になったら また訪れる約束をしよう」としたため、秋深まる盛岡を去った立原。翌年の39(昭和14)年3月29日、24歳で永眠し、四戸家との再会の約束は、果たせなかった。
(鎌田大介)  


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