盛岡タイムス Web News 2014年  8月  7日 (木)

       

■  〈風の筆〉62 沢村澄子 「続・墨の話」


 先週に続いて、墨の話。

  墨の匂いが好きだという人に、その香料原料がシカの、ふんであることを告げると、がっかりされる。子ども時代、「大人になったら絶対、子ジカのバンビちゃんになるんだ!」と心に決めていたわたしなどには(当時、バンビちゃんがこの世で一番かわいいものだった)鹿化願望からか全く悪い気もしないのだが、通常多くの人は落胆するようである。

  でも、ふんなのですよ。シカのふん。あのいいニオイは、シカのふんから。

  シカし、先週書いた、墨が腐った最悪なニオイ、とこれを混同してはなりません。墨が腐った時に出る悪臭は膠(にかわ)が腐ったもの。墨の原料の膠は動物の骨の周りの油で、これが腐ると異常に臭いわけです。ふんがいい匂いで、油が臭いというのは少々理解し難い感じがしないでもないけれど。

  大学を書道科に入学するや墨磨(す)り機というものを買わされ、墨汁は一切禁止。今のパソコン代くらいする墨磨り機には洗面器くらいの円型の硯が付いていて、小学生の筆箱くらいの墨を2本立てると、ぐるぐる機械が回って墨を磨ってくれるという仕組みだった。

  2時間で、どろどろの墨が500tくらい磨れ、それを瓶に磨りためて冷蔵庫に入れておくのが書道科の学生の常のところ、ある日、酔っ払った1人がそれを飲んでしまい、今度は「コーラ瓶禁止」という貼り紙が学生控え室の冷蔵庫のドアに。墨は必ずスプライトやファンタオレンジの瓶に入れるという約束になった。

  墨を一気飲みしてしまった女子は保健センターに搬送されたが、飲んだのが墨だったと分かって帰され、その成分は人体の組成物と同じだから大丈夫なのだそうで、そう言われれば煤(すす)は炭素。これが墨汁だったら危なかったと言われるのは、その原材料が化学物質であるからで、朱墨にいたっては水銀まで含んでいるものがあるという。保存料が入っているからというばかりでなく、墨汁はもともと自然物質でないから腐りにくいのだと、その時に教わった。

  腐らない(性質一定)ものの方が扱いには楽だし、かの悪臭がしないなら、ありがたいことこの上ないはずなのに、どうしてもわたしは墨汁を使うことができない。最初に墨汁禁止令を受けて始まった書作のせいかと思いきやそればかりではないようで、「腐っても鯛」ではないけれど、わたしは「腐っても墨」が好きなのだ。

  生きているから腐る。生きているから刻々とその姿を変えてゆく。目の離せないその墨と交わりながら、全てが一瞬たりとも同じ状態ではないこの世で、ではどうあるか、という自分の在りようやコントロール、所有という問題について、わたしは墨に習った。

  30分でさっき磨ったばかりの色に変化が見え始め、一晩で全く別の性質になり、3日で腐るその墨に、自分の右手を突っ込み何やら書き散らしたりながら、「今、何かが完全に合致した」と思われる時、その瞬間、わたしはなぜか自分が永遠≠ニいう姿のないものに触れたような気がしたこともまた、何度かあった。
     (盛岡市、書家)


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