盛岡タイムス Web News 2014年  8月  20日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉396 伊藤幸子 「銀座の夏」


 わがために今宵は呑めり銀座うら迷路をなして貝の匂ひす
                                       篠 弘

 「母が聖路加に入院しているのを、幼稚園の帰りに、ばあやにつれられて見舞いに行った時、それまでには食べたことのなかった西洋菓子を母がくれた」という楽しいエピソードは、故池田弥三郎さんの「私の食物誌」に出てくる一大グルメ特集だ。

  大正3年生まれの氏の幼稚園のころ―。周知のように銀座老舗のてんぷら屋さんのお坊ちゃまはこの日、「レディースフィンガー」という高級菓子を初めて食べたとのこと、その名前を確かめに家人が何度も「風月堂」に行き、それでもしばらく覚えられなかったという。

  お中元は、ほとんど砂糖だったという話。2、3斤(きん)から15斤入りぐらいまでの茶色のボール箱が神棚にいっぱい積まれていた光景。

  母上は銀座表通りの、砂糖や卵、のり、かつお節などの問屋「大黒屋」の娘さんなのでたいていそこの製品だった由。てんぷら屋では砂糖は使わないから母は60斤入りの大鉢に移し、それが何年も使い切れずにあったという。

  以前、この欄で佐藤愛子さんが銀座オリンピックに、魔法瓶を持ってアイスクリームを買いに行ったと書いたが、「氷西瓜(すいか)」と名付けられたものを最初に売り出したのがオリンピックだったとのこと。弥三郎さんの父上が初めて西瓜を召し上がったのは42歳のときというから食の歴史は即、人間の生活史だ。ちなみに氷西瓜とは、西瓜を小片に切って皿に盛り、それに砂糖をかけ、かき氷をかけたもので、ストローが添えられた。

  銀座のアイスクリームの始まりは、六丁目の表通りにあった函館屋であったというが、弥三郎さん宅では鍋町の風月堂のものだった。ここのアイスクリームは角のきちんとした短形で、上と下にウエハースがぴたりとはり付いていた。震災後は西五丁目に富士アイスができたのでよく食べた。これは1杯25銭だった。シュークリームは9銭だった。

  池田家の食卓のトマトの話。弥三郎さんは北原白秋の随筆で「よく熟れたトマトは鶏肉の味がする」と読んだが、まだ食べてみなかった。日本人が誰でもトマトを食べるようになったのは関東大震災後10年も過ぎてからのこと。

  身近な食品でも意外な歴史。そういえば明治の母は冷水につけたトマトに、たっぷり砂糖をまぶして食べるのが好きだった。お盆のスーパーの食品売り場で、白髪の母を思い、先立った人たちの好物を思い佇んだ。
(八幡平市、歌人)




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