盛岡タイムス Web News 2014年  8月  21日 (木)

       

■  〈風の筆〉64 沢村澄子 「ジブンヲカンジョウニ入レズ」


 どういうワケか長い間、「自分を感情に入れず」だと思っていたのだ。

  宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」を「自分を勘定に入れず」だとは思わなかった。

  もしかしたら「感情」ではなくて「勘定」なのかしら、と思われたのがきのう。あら、勘違いしてたかな、と、調べようとPCの電源を入れかけた時には、「どっちでも同じよね…」と、もうその指は動かなかった。

  寅(とら)年、しし座、O型生まれの自分には、石橋はまたいで渡るか、もしくは、どこにあったか分からない。たたいてたたき割ってしまうこともまたママあるくらいだから、「感情」か「勘定」であるかは、さしたる問題ではないように思われたのだ。

  ところが、翌日のきょうになってもまだ気にかかり、周りの人に聞いてみたところ、全員が「勘定」だと言う。自分を頭数に入れず、自分は食べなくても他者に食べさせるという意味でしょう、と聞いたときには「そうなの?」と驚いたが、「文脈で読めばそうでしょう」「逆に、どうして『感情』に読めたかそっちの方が不思議」とか言われたりして、いやぁ、わたしだって文脈で読んでそう思ったはずだから、これもいよいよの不思議なのである。

  「勘定」ならプラスマイナスの数直線上で考えることになるけれど、「感情」なら喜怒哀楽の四面。そこでの行き来が複雑な感じがして、しかもそこに自分を入れないんだから面白いじゃない、と主張すると、「賢治はそんなことは言ってないよ!」と友達はつれない。

  しかし、わたしは本当に長年「感情に入れず」だと信じ切っていたのであって、自分を感情に入れないというこの教えに、わたし自身、随分助けられてもきた。

  先日も、目の前で食事をしていた人、ニコニコ笑って快活に話しているそのご婦人が、わたしにはザーザー血を吹き出しているように見えて仕方なく、無理に明るく装っている様子を見ているのがつらくて、つい「抱えているものが大きすぎる」と言ってしまった。

  お互い素性も知らず、ほとんど初対面に近いような関係で当たり障りのない話をしながらのランチ、だったはずのところへのこの失言で、笑っていた彼女が突然泣き出し、悪いことをしたと気が引けたけれども、その無理を眺めることが食事中ずっとストレスだったことも事実で、その間わたしが考えていたことは、「自分を感情に入れれば、苦しい」ということ。 

  同じ状況でもどんな状況でも、自分を感情に入れなければ腹も立たず悲しくもない。やるべきことだけが見える。同じくどんな喜びの時にさえ、その感情から出たなら、そこにもまたその大事を見つける。

  長年、賢治はそう言ってるんだと、勘違いしてた。
     (盛岡市、書家) 


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