盛岡タイムス Web News 2014年  8月  26日 (火)

       

■  立原道造生誕100年 「盛岡ノート」いまむかし3 面影追った北の街 生き急いだ詩人と歌人 啄木と魂のめぐり合い


     
  立原が盛岡の街に向かった富士見橋(現在は鉄筋で再建)  
  立原が盛岡の街に向かった富士見橋(現在は鉄筋で再建)
 
  1938(昭和13)年9月、愛宕山にあった四戸慈文(深沢紅子の父)の山荘で暮らし始めた立原は、さっそく盛岡の街に出た。少年時代から心酔していた啄木の面影を追って、下小路(愛宕町)を本町通に向かうと、富士見橋の十字路にあたる。木造だった先代の橋を渡れば、磧町(加賀野1丁目)は啄木の「小天地」発刊の地であり、街角は歌人の記憶をまだ宿していた。

  「盛岡ノート」には、「僕は木の橋をわたった そして青いさいかちの木の下を行った 古風な擬宝珠のついた橋があった そのあちらにも火の見櫓があった」とある。地元在住の詩人、加藤健(1908―1945)と連れ立って、紺屋町の番屋を目指し、目抜き通りの肴町に向かった。

  1938年当時の盛岡市の人口は7万1140人で、現在の4分の1に満たない。山荘の田園風景から20分も歩けば都心に至り、市街の広さも現在の半分以下だった。中津川をさらに下り、杉土手の合流点まで足を延ばすと、そこには啄木の母校の盛岡高等小学校(下橋中)があり、「十五の心」の城跡を対岸に望んだ。

  「盛岡ノート」で立原は、当時の街並みを「稚拙」と表現する。既に高層ビルが軒を連ねていた帝都の建築家は地方都市をそう表したが、大都会の蔑視はなく、むしろ歌人啄木の揺り籠となった城下町への、ほのかな愛情がうかがわれる。

  「この町のメーンストリートへ行き デパートの屋上にのぼった かわいらしい町が全部見渡せた」。肴町を代表する近代建築として目にとまったのは、盛岡最大の百貨店だった「松屋」。1935年に県内初の鉄筋コンクリート5階建て、エレベーター付きのデパートとして開店した。平成まで残っていたが、解体されて今は駐車場になっている。

  歌人が闊歩(かっぽ)した明治のハイカラに、昭和のモダンが雑居する盛岡は、文学となりわいのはざまに惑う詩人を、安堵させるものがあった。健康を回復し、文士、建築家としての自立を期した立原は、啄木の故地を目にして一つの念願をかなえ、青春に決別する。それは同時に自らの文学の飛躍と、在京のフィアンセである水戸部アサイとの確かな暮らしの誓いでもあった。

  「僕は文字で景色を人につたえたいなどと、いままで一度もおもいはしなかった しかし いま おまえのために この僕の目がはじめて風景を見たおどろきを そのまま おまえにつたえたいと おもう そしてそれをするには 何と 僕の言葉は ひとり歩きして おもいもかけない世界をつくってしまうことか!」

  盛岡滞在後の立原は帰京し、西日本に向かい、「長崎ノート」を著して、両作品は立原文学の記念碑として読み継がれている。立原の紀行は建築家らしい理知に裏打ちされ、放蕩(ほうとう)によって石もて追われた啄木の流浪とはコントラストをなす。しかしそれは、時代を生き急ぐ天才の業(ごう)という点では、悲しくも一致していた。

  啄木の歌には野に咲く花の爛漫(らんまん)が香り、立原の詩にはガラスの街の緻密が光る。明治と昭和に時を隔てた二人の文学は、盛岡の街に魂の邂逅(かいこう)を果たし、早世の才を惜しまれながら、文壇に刻印されている。(鎌田大介)
    =月1回掲載=


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