盛岡タイムス Web News 2014年  8月  28日 (木)

       

■  〈風の筆〉65 沢村澄子 「続・ジブンヲカンジョウニ入レズ」


 まずは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の冒頭を手帳に残された原文から引く。

  雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラツテヰル/一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ…(後略)

  この中の、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という一文を、わたしが長く「自分を感情に入れず」だと思っていたことを先週書いた。周囲が皆「勘定に入れず」だと言うので、彼らにせよわたしにせよ、文脈から意味を、文脈からそのカタカナに合う漢字を想像していたであろうに、わたしだけどうして「感情」だと思ったのか…と脱稿後も気になり、どちらでも大きく読めば同じことだと思いつも落ち着かず、改めて原文を読み直してみたが、やはり「感情」でもいいんじゃないの?と思ったのだ。少なくともここでの「カンジョウ」を「感情」と読んでも悪くはないような気がする。

  では、なぜ周りが皆「勘定」だと、ああも言い切れたのかが次なる疑問になったが、例えば、インターネットの世界では、漢字と平仮名で表記された「雨にも負けず」がさまざま存在しており、それらでは「自分を勘定に入れず」となっている。これらを読んだために多くの人が「勘定」だと思うようになったのか、原文を読んでそう思う人が多いので「勘定」と記されるようになったのか、

  そこらへんも分からないものの、ここでちょっと脱線。

  文章が読まれるときには、文体の持つ色や形や音律、ニオイみたいなものもまた読み手に大きく作用しているから、同じ意味を語っているようでも、カタカナを使うか漢字を使うかでは、文の体の違いから、伝わってくる内容にも違いが出る。「僕は君の希望だろうか」と「ボクは キミの キボウ だろうか」では、何かが違うはず。筆者には、そこでその単語、カタカナ、漢字、平仮名、ローマ字、外国語を含めて、あらゆる表記の中から「それ」を使うという意志が働いているのだから、その「それ」を他者がそうそう簡単に変えていいとは思えない。

  こう書くと、それなら原文が手書きなのだから、それを活字に直した地点で既に別物でしょう、と言う人も出てきそうだ。その時には、その時こそ、意味の伝達ばかりに終わらない、書のよろこび、書の楽しさ、書とは何か、ということについて話ができればいいな、と思う。

  いずれ、冒頭の「感情」でもいいのではないか、という話に戻すと、原文のカタカナにどの漢字に当て、どう解釈してゆくかというのは、結局常に読者に委ねるしかないことで(書も画も音楽も詩も、全ての作品はいつも鑑賞者を映す鏡だ)、しかし、「勘定」と「感情」、そのどちらが働いたとしても、人間が真実から遠くなるということは間違いのないことのように思われる。

  捉えたい真実というものがあっても、捉えられる真実というものがあるのかどうか、それはいつも疑問なのだけれども。
     (盛岡市、書家)


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