盛岡タイムス Web News 2014年  9月  11日 (木)

       

■  〈風の筆〉69 沢村澄子 「花を手折りて」


 先週はパンツが1枚なくなった話を書いた。その騒動に巻き込まれる直前、わたしは夜行バスの中で映画「レ・ミゼラブル」を観ていたのである。主人公のジャン・バルジャンが飢えためいに食べさせるために、パンツ1枚ではなく、パン1本を盗んでしまった話。

  パンツ1枚、パン1本でそんなに苦しむ必要はないのに、と思いながら、いきおい自分の方が懺悔(ざんげ)したくなった先週だった。それで、また思い出した昔の話。

  小学校1年の夏休み、わたしは歩いて20分ほどの歯医者さんに1人通った。

  途中、街路樹の植え込みに見事な芙蓉の花が咲いていて、とにかくそこを通るたびに気になって仕方なく、ついにある日、わたしはその1本を折ってしまった。

  当時は名前も知らなかった芙蓉を手に家まで全速力で走り、肩で息をしながら瓶を探し、水を入れ、花を挿して台所のテーブルに置いた。ところが、芙蓉は再び水を吸い上げず、いくら待っても頭を垂れたまま。

  全速力で走ったのは、暑い中で花の水が下がることを恐れたからで。捕まるのが怖かったわけではない。そんなことは考えられないくらい、花に夢中だった。

  しかし結局、わたしの手元で芙蓉は枯れてしまい、枯れたのは自分のせいだと一晩中、声を殺して泣き、自分がいけないことをしたから、そのせいで花は枯れたのだと疑わなかった。

  当時、罪の概念がどこまで分かっていたかは定かではない。しかし、罪悪感はずっと残り、大人になるにつれ芙蓉の花を見るにつけ、自責の念は大きくなった。

  ついに人前で懺悔したのは40歳を過ぎた頃で、70歳くらいのある先生に打ち明けたのだが、その時、あっさり言い返されたその一言に救われた。「花だけは盗んでもいいんだよ」

  心が軽くなった。と同時に、ちょっと意味深長に聞こえておかしくも思った。

  「じゃぁ、隣の奥さんも盗んでいいということですか」「隣の奥さんに花ほどの価値があるならね」

  大笑いした。

  それから、その人が続けた言葉。「この世の人間はみな多かれ少なかれ、奪ったり奪われたりしながら生きてるんじゃありませんか。それをしないで生きられる人間なんていないでしょう?」。また救われるような気がした。

  あの花を盗んだからではない。それ以前に生まれながらにしての罪びと、として生きるワタシ。その認識がわたしを救ったのだ。しかし、わたしが渇望してやまなかったのはパンではなかった。「美」というシロモノである。それは何十年経った今でも、金銭を出しても得難いものとしてわたしを高揚させ、鼓舞し、時に苦しめたりしている。

  得たいものというのは、自分の内にあってほしいと願うもの、なのに、ないものである。その奪い難さ、得難さというものを、わたしは6歳の夏に思い知った。
     (盛岡市、書家)


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