盛岡タイムス Web News 2014年  9月  27日 (土)

       

■ 〈体感思観〉 障害があるのは 編集局 井上忠晴 


 障害は持っているのではなく、あるものです―。20年ほど前、取材していたときに聞いた言葉だ。それまで持つとあるを意識することなく原稿に使っていたが、以来、障害のあると表現するようになった。

  今月、委員を依頼されている全国中学生人権作文コンテストの盛岡人権擁護委員協議会管轄の審査会があった。かれこれ10年前後、引き受けているが、今年は近年まれに見る応募数の多さ。しかし、順に読み進めていくと、高水準の応募作が多く、数を読む苦労はあったが、心地よい読後感があった。

  募集しているのは人権に関するもので、主なテーマは中学生に身近ないじめの問題をはじめ、高齢者、障害者との関わりから学んだこと、広い枠では差別や偏見への感覚も鋭い。毎年の審査のたびに、さまざまな経験を通じて中学生に育まれる優しさを頼もしく感じる。

  障害者の作文では障害者と書かず、障害のある人や障害を持つ人という書き方をしている作品が多い。害を「がい」と平仮名にしている中学生もいる。その持つとあるの使い方だが、確かに身体の一部に不自由があるため、体に障害を持っているという解釈は間違いではないと思う。一方、あるとした場合でも体に存在するという意味で使われても、おかしいところはないと思う。

  では、20年ほど前に聞いた言葉の意図するところは、どこにあったのか。以来、「障害がある」と使い続けてきたのは、障害の場所が身体ではなく、接する社会の側にあると思ったからだった。障害者の人たちが社会生活あるいは家庭生活を送る上で不自由なこと、それが社会の障害。この障害を一つ一つ取り除く努力がなされてきた。身体の側の障害を除くことがなかなか困難な以上、社会の側の障害をなくしていくことで、不自由さが解消していくということを社会全体で共有していければと思う。

  最近、盲導犬がナイフで刺されたといった悲しい事件に接し、社会の物理的な障害の解消は進んでいる一方で、人々の精神的な解消に道は険しいと思わずにいられない。

  中学生の人権作文では、守らなければ、助けなければという優しさの段階から、障害者や高齢者との交流などを通じ、相手の気持ちを尊重して、共に生きる社会を大切さを知った成長の跡がうかがえる作品に、一編と限らず出合うことができた。中学生の豊かな感受性が、社会から障害を取り払っていく大きな力となることを期待している。


 


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