盛岡タイムス Web News 2014年  10月  19日 (日)

       

■ 立原道造生誕100年 「盛岡ノート」いまむかし(完) 未完の「詩想設計」 建築と文学のジレンマ 北の山河懐かしみ夭逝

 

     
  立原が盛岡滞在中に描いた色紙(四戸孝丸さん所蔵)  
  立原が盛岡滞在中に描いた色紙(四戸孝丸さん所蔵)
 

 詩人、立原道造は建築家でもあった。東大工学部在学中に3年連続、辰野賞を受賞して学界に嘱望され、卒業後は銀座の石本建築事務所に勤めた。賞のかんむりは東京駅の建築家として知られる辰野金吾(1854―1919)。盛岡市の岩手銀行(旧盛岡銀行)も、辰野と盛岡出身の葛西萬司(1863―1942)が設計した。肴町を訪れた立原は、建築家としてゆかりある銀行を横目に、詩人の顔で素通りした。意匠を見れば辰野作品であることは瞭然だが、県公会堂を含め、当時のめぼしい近代建築にはペンを運んでいない。和洋折衷の紺屋町番屋だけが、「火の見櫓(やぐら)」として、折に触れ登場する。
 立原が盛岡入りした1938(昭和13)年は、欧州でナチスドイツが版図を拡げ、アジアでは日中戦争が本格化。軍靴の響きを背に受けて、立原は北に旅立った。「盛岡ノート」も山形入りのエピローグから、戦時色をにじませる。

  「防空演習のサイレンが鳴り、部落のあちらこちらで不吉な音をして半鐘が響く。防空演習だけが東京から僕についてくる」

  太平洋では日米間に波騒ぎ、都市部の住民に空襲の不安は現実味を帯びてきた。大陸の戦線は泥沼化し、思いを寄せていた深沢紅子も、立原の盛岡入りとすれ違いに、女性初の従軍画家として戦地に向かう。

  なりわいの建築界は国家財政の戦時化と統制経済のもと、軍需中心になりつつあった。立原は関東大震災の焦土を見た少年の鋭利なまなざしで、東京の空に次の破局を予見していたのかもしれない。

  立原の建築思想には廃墟への憧憬(しょうけい)があったと言われる。当時主流の機能主義には反発し、代表作「ヒヤシンスハウス」に見られるように、すでに傍流となっていたロマン主義へと傾斜していった。

  その一方、文壇では保守的な「日本浪漫派」に接近するなど、立原も時局に無縁ではいられなかった。文学にかじを切れば順風、建築にかじを切れば逆風のもと、若きスター詩人は密かなジレンマに陥った。

  盛岡に遊んだ立原は、あえて匠の技から目をそらし、ひたすら内省に創作の糧を求めた。行間にロマンスの帆を上げて、重苦しい時代の風圧もあえてはらみ、新境地を指した詩人の航跡を消したのは、病だった。晩秋の足音に追われるように10月19日、立原は1カ月の滞在を終えて帰京する。

  「僕はいま寝台車の中にいる もう盛岡を出ていくつか駅をすぎたようだ 外はくらい また『くらい夜をとおって!』僕はおまえのところにかえってゆく こんなにもたやすくすてることの出来た 僕の愛したちいさい町よ ふたたび僕のかえる約束がいつの春の日にみたされる おまえも僕もしるまい」

  帰京した立原は温暖な療養を求めて11月、関西、山陰を経て九州へ向かい、「長崎ノート」をしたためる。滞在中に喀血(かっけつ)し、帰京して入院。年明けには中原中也賞を受賞するが、3月には病状が急変し、1939年3月29日、24歳で世を去った。

  最後まで盛岡の空と山河を懐かしみながら―。(鎌田大介)=おわり=

     
  1975年10月19日に建立された愛宕山の立原詩碑「アダジオ」  
  1975年10月19日に建立された愛宕山の立原詩碑「アダジオ」
 

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