盛岡タイムス Web News 2014年  12月  18日 (木)

       

■  〈風の筆〉81 沢村澄子 法性寺の襖(ふすま)


 一昨日、盛岡での個展が終わり、昨日は北上の2人展の搬出に行って、ようやく今年の14全ての展覧会が終了。今は玄関から階段から廊下から作品だらけ。この原稿が書き上がるのを、その片付けが待ちわびている。

  11月に東京・浅草のギャラリーで個展があった際、近くの柳嶋妙見山法性寺にも作品を飾らせていただき、そこの襖(ふすま)にも「いろは歌」を書いたのだ。約6bを両面。あんまり読めないわたしの作品を検査もしないで「どうぞ」と許すご住職の度量にまず驚いて、でも、お寺さんの襖に何を書いたらいいのかというのが一番の悩み。結局答えが出ず、ここ数年ずっと書き続けていた「いろは歌」をやはり書くことになるのだけれど、それでも泥縄で日蓮上人に関する図書を読みあさった。

  法性寺は日蓮宗である。わたしにその知識は毛頭なかった。図書館の本を片っ端から読んでみたのだが、結局やはり「ムリッ!」。そんなに簡単にモノゴトが分かったらおかしい。修行する人がいなくなる。

  それでも心に残ったのが「折伏逆化(しゃくぶくぎゃっか)」という言葉で、日蓮救済論の核心と言われているものらしい。逆縁(対立する関係)によって、両者は最も救済されるという。

  そういえば、と思い出したのが10年ほど前の個展で、その時わたしはなぜか、男女、親子、天地、上下、左右、愛憎、主客…などと反対の言葉ばかり延々と200bぐらい書いたのだ。なぜそう書きたいのかその時は分からなかった。それが今回、「折伏逆化」という言葉に出合って、「んー」と、わたしの心にさざ波が立った。

  話は飛ぶ。法性寺の襖には両面「いろは歌」を書いたのだが、一方は平仮名で、もう一方には片仮名で書いてある。漢字は表意文字、平仮名、片仮名は表音文字、というのが通念であろうが、書をするわたしにとっては、平仮名は表意文字でもある。なぜなら、平仮名には各々字母(じぼ)があって、例えば「い」の字母は「以」、「ろ」の字母は「呂」、「は」は「波」というように、母である漢字が草書以上に簡略化されて平仮名が作られており、当然、平仮名を見ても書いてもその字母、もとになった漢字が見える(肉筆の場合)から。

  そして、表意文字にはアイデンティティーが強く、しかもそれは何千年と淘汰(とうた)されてきた結果なのだから、たかだか何十年生きたくらいのわたしがどう書こうなんて厚かましいことは考えず、ただこちらを無にして書けば書くほど、彼らはその字義を大きく発露する。その時、岩手弁の「書かさる」という自発の感じがするのだ、彼らには。

  ところが、片仮名というのは漢字の一部なもので、頭だけとか腕だけとか。わたしから見ると文字と言うより記号という感じで「書かさる」気がしない。こちらがしっかり書こうとしない限り、片仮名は自ずとは生じてこない。もう少し丁寧に説明したいが、紙面の関係で端折ると、つまりわたしは、漢字、平仮名を他力で書き(文字の力が書いており)、片仮名は自力で書かねばならなかった。

  自身、昨今自他の分別があやふやになってきていたので、法性寺の襖には、その拮抗(きっこう)を強く強くさらに大きくと願いながら、両者を背中合わせに入れさせていただいた。
     (盛岡市、書家)


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