盛岡タイムス Web News 2014年  12月  27日 (土)

       

■ 〈遠野の楽人 武田忠一郎〉4 南部駒蔵


 遠野中学校を卒業するころ、音楽、柔道、共に好きだった忠一郎は、武徳専門学校に進学するか、音楽学校に進学するか迷った。それを知った菅野皆可校長(旧制遠野中学二代目)が助言してくれた。「君は岩手師範学校へ進んで、音楽をやりたまえ」と。

  こうして忠一郎は父と同じ小学校教師の道を選ぶことになった。しかし、その心は音楽│「うた」の研究にあった。

  一九一〇(明治四三)年、岩手師範学校に入学、四五年に卒業後、釜石尋常小学校の訓導や現役兵として入隊、さらに中斉高等小学校の訓導などを経て、東京の淵江尋常高等小学校などの訓導をしながら夜間の東洋音楽学校講習会で学び、一九一八(大正七)年、器楽科を卒業する。師範学校の勉強だけでは音楽の勉強は不十分で、どうしても東京に出て専門の音楽教育を受けたかったのである。「講習会」という形での勉強だったが、専門の音楽教育を受けたことの意味は大きかった。特に、田辺尚雄の講義に強く引かれ、大きな影響を受けた。田辺尚雄は東大の理学部物理学科で理論物理を勉強しながら、東京音楽学校にも席を置いていたという変わり種で、バイオリンを演奏すると同時に、民俗音楽にも関心を持ち、講演、座談の名人であった。教えを受けた金田一春彦は「東大在学中、感激して聞いた講義は田辺のものしかない」と言い切っている。忠一郎も恐らく深い感激をもってその講義を聴いたことであろう。『田辺先生還暦記念東亜音楽論叢』(昭和一六年刊行)には忠一郎の「東北地方民間に行われる横笛の例」も収められている。


  東洋音楽学校講習会で学んだことで、もう一つ大きな意味があった。それは四歳年下で声楽を学んでいた石垣きんと意気投合、結婚を約束したことである。同校を二年で卒業し、岩手に帰郷、大槌小学校に勤めている、一九一八(大正七)年、六月に二人は結婚する。

  その後、釜石尋常小学校、黒沢尻実科高等女学校、岩手高等女学校などの教師として勤めながら、忠一郎は本格的に岩手の民謡を調査、研究していく。妻のきんは良き理解者であり、時に援助者ともなった。民謡を聴くために、おじいさんやおばあさんを招くこともあったが、きんはその人たちを優しくもてなした。採譜につまづくと手伝ったりもした。忠一郎の民謡採集が最も進んだのは、岩手女学校(現在の岩手女子高)であるが、妻きんの援助もあずかって大きかった。忠一郎は音楽の教師をしながら、にぎり飯を持って各地に出掛けて唄を歌ってもらって、記録していった。その最初の結実が昭和六年に出版された『岩手民謡集』である。


  一九三三(昭和八)年、順風満帆と見えた忠一郎の人生を大きな不幸が見舞った。妻きんの突然の死(心筋梗塞と思われる)である。男の子一人、女の子三人の子を残し、わずか三八歳の若さであった。きんの実家、石垣家ではきんの妹、さくが病弱ということもあってまだ、結婚しないでいた。両家でどういう話がなされたか分からないが、きんが亡くなって間もなく、このさくが姉に代わって嫁いできた。さくとの間に子どもも生まれ悲しみも癒やされていった。

  一九三五(昭和一〇)年、民謡歌手の大西玉子が、これからの歌手は五線譜も読めなくてはだめだ、正式に音楽を習いたい、と忠一郎の弟子になった。忠一郎の民謡採集は相変わらず、こつこつと進められていた。


  一九三七(昭和一二)年は、忠一郎、四五歳の年は、大きな年であった。前年に、星川又蔵とともに外山に出掛けて採集した民謡「外山節」を編曲し、これを大西玉子に歌わせてキングレコードから発売(一月四日)、全国的なヒット曲となったことである。元唄の「外山節」はテンポが速く、しゃべるような調子であるが、忠一郎はこれを伸びやかな、明るい唄にした。幾分お座敷唄のような華やいだ感じも取り入れた。これによって、「外山節」は多くの人々に親しまれ、現在も民謡を習い始める時の入門の唄のような役割をしている。盛岡市玉山区で毎年行われている「外山節」全国大会でも、ほとんどこの武田忠一郎編曲の「外山節」が歌われている。

  わたしぁ 外山の 日陰のわらび 誰も折らぬで ほだとなる コラサノサー
  おれと行かねか あの山陰さ  駒コ育てる 萩刈に コラサノサー

  おそらくは男女の掛け合いのように歌われた、明るく親しみやすい、楽しい、幾分お座敷唄のような「外山節」は民謡の入門期の唄として全国的に親しまれている。「日陰のわらび」といっても、決してみじめな成長の悪い女性と言うのではない。わらびは日陰のわらびの方が太くて、大きい立派なものが育つ。私はその日陰のわらびのように、ひそかに立派に成長した、おいしい(?)女なのよ、と男を誘惑しているのである。

  外山は盛岡市の中心部から二〇分ほど、小本街道を岩泉方面に向かっていくと岩洞湖の少し手前に、外山小学校があり、外山高原がある、その一帯である。「外山節」はその高原の牧場―外山牧場で馬を育てる萩刈の作業をしていた農夫たちの作業歌である。

  外山牧場は明治九年に岩手県産馬組合が開設、明治二三年には国が買い上げ、皇室の御料牧場として最盛期には、牧夫四〇〇人、馬四〇〇頭もいて栄えたという。昭和一二年、同じ岩手県の六原に軍馬補充部ができて閉鎖になった。とはいっても、ある程度の馬は飼われており、それなりの牧夫もいたらしい。
(次回は28日掲載予定)

 


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