盛岡タイムス Web News 2015年  2月  12日 (木)

       

■  〈風の筆〉88 沢村澄子 松林図(中)


 ふすま2枚分の「いろは歌」を小柄なおじいさんのお宅に納め、震災のバタバタですっかり忘れていたのだが、それを見に行ったのは、書いてから9カ月も経ってからだった。

  手放した時は紙の状態だったのが、表具師さんの手で見事にふすまに仕立てられている。その変貌ぶり。またその間、時間がかなり経っていたし、何よりあんな未曽有の災害に翻弄(ほんろう)されながら過ごしていたため、一枚きり書いたその作品のことをわたしはまるで記憶していなかった。つまり、自分が書いておきながら、自分の作品に会うという感じがしなかったのである。

  ところが、その部屋の扉が開いた途端に、浦島太郎の玉手箱ではないけれど、なにやら煙のようなものがあふれ出てきたように思えた。

  実際のそれは可視物ではなく、例えば「霊気」といったようなものだったと思うのだが、太郎の玉手箱の煙よりずっと多い、演劇などの舞台から客席へあふれ出ているようなスモーク、それくらいのものが、その部屋から流れ出てきた、と、わたしには感じられた。

  スモークの素がふすまの「いろは歌」であることは明白な気がした。根拠はないが、疑う余地のないものに思えた。「いろは歌」が長く閉ざされていたその部屋で霊気をためていたのだと思った。  

  そして部屋に入り、ふすまに対峙(たいじ)したその瞬間に直感された「この人(これを書いた人)をあなどってはいけない」ということ。

  家に帰ると、遠い画家の友人から電話があって、かくかくしかじか、きょうはこんなことがあった、わたしは「生まれて初めて自分を大事にしようと思った」のだと報告すると、「長谷川等伯が同じようなことを言ってるよ」とその画家は言う。

  等伯が旅先ですごいと思う作品に出会い、それが昔自分の描いたものだと分かって、その日から等伯は画業に本気になったのだと。

  「できすぎた話だ」とわたしは笑ったが、本当なのか冗談なのか、画家はなおも懸命に話し続けた。

  その話の真偽は、実は今も知らない。

  しかし、わたしはあの日から「わたしはわたしを赦(ゆる)さない」と思っている。それまでずっと「わたしなんかが書いたところで…」と消極姿勢だった書作の、そこからもう自分を決して逃さない、とにかく、とにかく「書くのだ」と思うようになった。

  ところが、キリキリと自分を絞り上げるようにして書いたところでいいものはできず、かと言って、ではどう書けばいいのかというのもまた分からない。けれど、とにかく書く。わたしはそう決めたのだ。

  そのあの日から、等伯は親しい。意味もなく、そう何の意味もなく、ただ無意味なまま、等伯は親しい。

  それで、社長さんからチケットをもらうと、いそいそと東京国立博物館へ国宝・松林図屏風を見に行った。その階段の中ほどには松や梅が大きく生けられてあり、博物館のシックな佇まいの中にお正月のあでやかさが凛(りん)と響いているようで、何とも至極心地がいい。
     (盛岡市、書家)


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