盛岡タイムス Web News 2015年  2月  19日 (木)

       

■  〈風の筆〉89 沢村澄子 松林図(下)


 長谷川等伯が旅先で、過去に自分が描いた絵を見て驚き、それからいよいよ画作にのめり込むようになった、という話を教えてくれた画家はこうも言った。

  「神がかり的な絵を描こうと思ったら、キチガイになるか、バカになるか、のどっちかだよね」

  それを聞いたわたしは、とっさに「違う」と思ったが、そう直感しながら、どう違うのかは言えなかった。

  ところが、それから3年余りたって、今回奇しくも松林図の前に立ってみると、その「違う」がぼんやり分かるような気がしたのだ。

  バカになる、愚に徹するというのは、悟りたい人の話のようで、それはまた修練によって近づいていくことのできるものなのかもしれない(修行が悟性を喚起して)。しかし、「神がかり的」というのは、霊性に導かれるもののように思えて、それが後天的努力で何とかなるものなのかどうか、わたしには分からない。人間の意志と霊性というものがどれだけ連動するものなのか、分からないのだ。ただ、等伯には霊気を感ずることがこれまでたびたびあった。

  いや、まて、とたった今思ったが、人間素直にしていると、隠されていたアンテナがひゅひゅひゅっと頭上に立ち現れ、そこへ神様が降りて来るのかもしれないね。すると、素直になるってことがバカになることで、神も仏も、結局いくらも違わないのかしら。いや、そんなことはないか。いや、分からないな。でもとにかく、とにかく「素直」は大事ですよ。このことだけは間違いない。小さな我に縛られていて、どうして他者の心まで揺り動かす、大きな仕事ができるだろうか。

  等伯の松林図はわたしにとって謎の多い作品でもあり、近づいて松の幹の線など凝視すると、そこには間違いなく等伯を見つけることができるのだが、構図にどこか、ふに落ちないものがある。何とも形容し難い不明瞭を覚える。いや、それがこの画の魅力なのかな…と自問していたら、なぜかその時ダ・ビンチが浮かんで、そうだ、ダ・ビンチにも不明瞭と霊気を感じる。そんなことを思いながらさらに歩いていると、継色紙、寸松庵色紙、升色紙が並んでいる一角に。松林図に合わせての特別展覧だと伺ったのだが、書をする者にとっては垂涎(すいぜん)の対面。

  学生時代、継色紙が好きで好きで、何とか本物を見たいと願うもののなかなかかなわず、それがこうして三色紙まとめて突然眼前に現れて、美しいでしょう。どの色紙も。言葉が出ない。それなのに、松林図の前にある人だかりはここにはなくて、一人ひっそり向かい合う、寂しいような、このぜいたく。

  等伯・松林図の空間に感じることがあるなら、継色紙のそれにもひかれるに違いない。あの松の重なりに何かを思うなら、升色紙の文字の重なりにも何かしらの発見があるはず。書も楽しいのですよ。そして、美しい。等伯やダ・ビンチ同様、空海のようにやはり霊気にあふれた書もあって。

  とにかく新春のトーハク(東京国立博物館)はあでやかですがすがしく、うれしくて。現在は「とうほくの仏像」(〜4月5日)「3・11大津波と文化財の再生」(〜3月15日)の二つの特別展で東北を応援してくださっています。
     (盛岡市、書家)


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