盛岡タイムス Web News 2015年  5月 14日 (木)

       

■  〈風の筆〉100 沢村澄子 白いゾウ


 先の帰省の折、京都に行った。大阪の実家からは電車で40分ほどである。

  京都駅から市バスに乗り、かろうじて一つ空いていたつり革につかまると、目の前にポスターが。
   日本に、
   京都があって
   よかった。

  そうキャッチコピーされた背後には、白いゾウの画が写っていた。

  重要文化財、俵屋宗達の杉戸絵「白象図」である。

  おお〜っ、と思い、これどこで見れるの?と心中独白して、次の瞬間にはもう降車ボタンを押していた。

  そして、東本願寺前バス停に立ってみて後悔。せめてあのバスが養源院に行くのかどうかを尋ねるべきであった。もし行かないと言われたなら、行くバスのナンバーを教わるべきで。

  交番を探し、案内を請うと、降りたバスとはクロスする方向に向かえという。

  ところが停留所で待つこと15分、バスは来ない。寺は午後4時に閉まる。ついにタクシーを止めた。

  「養源院まで」と告げると「それどこ?」と聞かれ、こちらが教えてほしいくらいだったが、養源院はいくつかあるという。何とか調べ、三十三間堂の近くと分かり、3時30分に滑り込んだ。

  関ケ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで、鳥居元忠以下1千人余りが城を死守し、最後に自刀した。その血のしみ込んだ廊下の板を、供養のため、この養源院では天井板にして保存している。

  そんな解説を聞きながらの団体行動。たどり着くのにあんなに苦労したのに、30分はあっという間だった。かのゾウの前に座れたのはわずか数分である。

  しかし、至福だった。この世で、こんなにも満たされることがあろうとは…。

  近々見た美術品の中で、わたしはこの「白象図」に一番感動した。

  宗達は大きいのである。そして、宗達の画にはよろこびがある。

  ベートーベンが「苦悩を突き抜け歓喜に至る」と言ったのだそうだが、やはり芸術は最後、人々によろこびを与えるべきものではないか。たとえそれが、個人の苦しみから始められたものであったとしても。

  宗達の大きさを前にすると、あのことこのこと、魑魅魍魎(ちみもうりょう)としたこの世のオフザケなんか吹っ飛んでしまい、笑えてくる。そしてついには、早く盛岡に帰って仕事をしたい、そんなことを思いながら養源院を出た。

  門のところで、「お客さん、ひどい日に来たもんだね」と寺の奥さんに言われた。

  この日は大阪でも京都でも朝から雪がちらついたのだ。奥さんは作務衣の前をかき合わせながら、「桜が咲くとこだったのに…」と嘆いた。3月21日だった。

  その日からまだひと月半しかたっていないというのに、わたしにはなぜかもう、3年もたったかのように思われる。そして不思議なことに、あの日、自分がどこへ行こうとして京都駅からバスに乗ったのかを、今、どうしても思い出すことができない。

  いよいよボケてきたと将来を悲観したいところだが、何をいまさら、実は、これまでだってずっとこうしたデタラメな彷徨(ほうこう)の連続にわたしは生きてきた。そして、その中、いくつもの白いゾウに出会ったのだ。
(盛岡市、書家)

    ◇   ◇

  ※「白象図」を掲載した観光ポスターはインターネット上の京都市情報館内のページに載っています。URLはhttp://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/00000035115.html


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