盛岡タイムス Web News 2015年  5月 21日 (木)

       

■  〈風の筆〉101 沢村澄子 祖国はありや


 先日ある会議に出席して、その帰り。ビルを出ようとしたら、雨だった。

  折りたたみ傘を持っているのに開くのがおっくうで、晴れ女が3分待てば止むに違いないと、空を見上げた。

  そこへ、さっきまで同席の営業さんが通りかかり、傘を用意しますと言ってくださる。断ってから、わたしは奇妙な質問をした。 「もしかしたら、その髪型に何か意味があります?」「えっ、分かりますか…。会社員としてどうかといつもいわれるんですが、でも、これが僕なんです」

  その時、何か思ったようだが言えなかった。ただ、これまでその人に会うたび、わたしはどうにもその髪型が気になり、しかし、それは会社員としてどうこういうほど乱れているわけではない。やや長髪には違いないが丈の問題でもない。ただ単に、そこに頑固や固執を感じるわたし、なのだ。
「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや」
寺山修司の歌を思い出した。

  初めてこの歌を読んだ時、海に投身しようとした人の歌だとわたしは勘違い。「祖国」を「我」と拡大解釈し、後に反戦歌だと学校で習うまで、修司は「海に身を投げる。そうしてまで死守すべき我があるか」と言ったのだと思っていた。

  が、そんな話もできず、長髪の君はなぜかそこで、自分がアラフォー、独身なのだと身の上を話した。

  そういえば、しばらく前に、やはりアラフォー、独身の娘さんに会ったっけ。彼女はかの震災で家やお身内を亡くされており、その後、さまざまなカウンセリングやセラピーに参加したのだと話された。そして、「そこで分かったのだ」という話の流れだったと記憶するが、「本当の自分」「ありのままの自分」が見えてきたような気がする、と語られた。

  この時、長い付き合いの気安さからか、わたしはとっさに「そんなものはない」と言い切ってしまい、彼女に難しい顔をさせていた。

  しかし、仮に、晴れや雨や雪や台風の日があったとしても、日や、天や、あるいは天気に向かって「オマエの本質はこうだ」と言うことができるだろうか。そんな本質どこにあるのかと「これが僕」のお兄さんに尋ねてみたかったのだが、ちょうどそこへ社長さんが戻って来て、話はそこまで。自ら招集をかけたその会議に社長さんは欠席。それで、呼ばれたわたしたちは何が何やら分からないを繰り返しながら午前中を過ごし、困りましたね、しかし、ご検討くださいなんて言い合って、ビルを出ようとしたら、雨だったのだ。 「昼を食いに行こう」と社長さんは言った。会議の報告を聞くでなし、欠席の釈明をするでなし、近くのそば屋で「鴨南蛮でいいか?」と聞かれ、黙々とそれを頂いた。社長さんはさらに、盛りを一つ食べた。

  それでも何も説明されず、ただ黙々とお代りを胃に流し込む人を、黙って待つには息が詰まった。

  しかしその間、「諦めるしかない」といったような声を、どこかから、確かに聞いたと思ったのだ。わたしが何かを覚悟していた。

  自分の意図せぬところへ転がる運命みたいなものを、得体の知れない「我」というものを、この時ほど強く恐ろしく感じたことはなかった。
(盛岡市、書家)


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